主人が「ベールを被るというのはやめてほしい」と言っています。その場合、どうすればいいのでしょうか。
これは非常に難しい状況です。この事に関し、まず私は二つの異なる意見をあなたにご提示しようと思います。その後、何かあなたの助けになるような具体的な案をこれからご一緒に考えていけたらと思います。
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これは非常に難しい状況です。この事に関し、まず私は二つの異なる意見をあなたにご提示しようと思います。その後、何かあなたの助けになるような具体的な案をこれからご一緒に考えていけたらと思います。
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私は自分たちの教会における被り物の実践について、今アップデート記事を書いています。2014年9月、私たちは週末に修養会に行き、そこで相補主義と対等主義について皆で話し合いました。その結果、私たちの教会は、リーダーシップに関する相補主義的立場を公に受け入れることになり、その事は教会の信仰告白・信条の欄に書き込まれました。
女性の被り物についてですが、私たちは四週に渡り毎日曜、1コリント11:1-16の箇所から説教しました。この説教シリーズの終了後、私たちの教会は、「私たちは何を信じているか」という教会の小冊子の中に、次のような内容を追加しました。
女性たちの被り物について:祈り、説教ないし教えが執り行われている教会の集まりの場において、女性は、聖書の御言葉によって、被り物を着けることが求められていると私たちは信じています。これは1コリントへの手紙の11章1節から16節の箇所で明確にパウロが教えていることです。そしてこういった聖句の正当性を無効にするような他の聖句は聖書中、ただの一節も存在していません。この教えは、神学的かつ普遍的な教えです。またこれは時代を超えた掟であって、文化的だとか、地理的に制限されたものだとか、一時的なものではありません。私たちはこれが(既婚・未婚にかかわらず)全ての女性に求められている聖書の要求だと信じています。ただし、ここでことわっておきたいことがあります。それは、私たちはTIC(Trondheim International Church)の集まりの場で女性は被り物をするべきであり、その実践を確かに強く勧めてはいますが、これは救いに関する事柄ではないということです。よって、私たちはこの事をみなさんに押し付けるようなことはしません。TICにいらっしゃる女性のみなさんは、被り物をするかしないか、各自それぞれが選択することができます。TICは女性の被り物のテーマに関し、非常に明確で包括的な教えをしています。65ページに渡るロビン・バッサム牧師の、被り物に関する手引き書が教会にあり、お求めの方には差し上げております。 Read more
被り物についての聖句(1コリント11:2-16)は、「あいまいで不明瞭な聖句」という範疇に入れられがちな聖書箇所です。ある神学者は言いました。「ここの被り物の箇所と、Ⅱテサロニケの不法の人の箇所は、新約聖書の中でも最も不明瞭な聖句の内に数えられます。」しかし果たしてそうなのでしょうか。
ここの聖句は確かに活発な議論の余地ある箇所であり、さらなる熟考と綿密な検証を有するような質の高い反論も存在します。しかしここの聖句が「あいまいで、不明瞭」?
真に不明瞭な聖句というのは、その議論が続けて展開されていなかったり、説明されていなかったり、もしくは擁護されていないような箇所のことをいいます。そして、そういった漠然さゆえに、その箇所の意味を識別することが容易ではないのです。
例を挙げましょう。例えば、1コリント15:29(死者のためのバプテスマ)、1テモテ2:15(女性は子を産むことによって救われます)、1コリント11:10(「御使いたちのために」被り物をする)などは一般に不明瞭な聖句とみなされています。
被り物の箇所にも、不明瞭といわれるこの聖句(1コリ11:10b)が一つ出てきますが、箇所全体としてははっきりしており、そこに不明瞭さはありません。
曖昧な聖書箇所というのは、たいがい、一聖句ないしは二聖句の短い箇所です。それに対し、被り物の箇所は、実に15節に渡って、しかも連続して書かれています。
また曖昧な箇所というのは、言及されてはいても、説明のない箇所である場合が多いです。一方、被り物の箇所においては、パウロは「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたい、、」(1コリ11:3)と語り、その後、このシンボルの背後に存在する意味を分かりやすく解き明かしています。
さらに、曖昧な聖書箇所は、「なぜそうしなければならないのか」という理由説明なしに掟が述べられているような場合が多いのです。しかしそれとは対照的に、被り物の箇所においては、「なぜ女性たちが被り物を着けなければならないのか」という理由がしっかり説明されています。
〔その理由に関しては、創造の秩序(3、7-10節)、自然の証言(14-15節)、御使い(10節)、使徒の公的教え(2節)、神の諸教会における慣習(16節)をそれぞれご参照ください。〕
ですから、被り物は曖昧どころか、新約聖書の中でも際立って明確に擁護がなされているシンボルなのです。 Read more
名前:アンジェラ・デッカー
年齢:19歳
所在地:カナダ、トロント市
祈りのベールを始めた時期:2015年4月
1) 読者のみなさんに自己紹介なさってください。
こんにちは!私は大学二年生です。昨年、バイブル・カレッジでの一年間の課程を修了し、その後二回に渡って、宣教旅行に行っていました。私は同胞クリスチャンのために、そして未信者の方々のためにお仕えしたいという熱い希望を持っています。そして共に救い主イエス様を深く知り成長していくことができるよう、カナダ国内外にいるクリスチャンを励ましていけたらと思っています。
2) どこの教会に通っていますか。その教会でも姉妹たちは礼拝時に、祈りのベールを被っていますか。
私は今春から地元の単立教会に集い始めたのですが、そこはブラザレン教会にとても似ています。教会の中ではほとんどすべての姉妹たちが、マンティラやスカーフ、帽子などで頭を覆っています。時々、教会を訪問される姉妹なら、被り物は課せられません。しかし、教会員になりたいと志願される方に対しては、被り物の必要性が説明されます。
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被り物(祈りのベール)を実践している人の多くは今日、律法主義的な人だとみなされています。この批判に対してコメントする前に、まずこの語の意味を明確にしておくことが重要だと思われます。
「律法主義」という言葉は聖書中どこにも出てきておらず、聖書の中に登場する人物で「律法主義的」と形容されている人も存在しません。この語は、掟を遵守する上での誤った観点を指し示すものとして人工的に作り出されたものです。一般的に言って、ある人が律法主義的である時、その人は以下二点のうちのどちらかを犯しているといえます。
ます一番目の定義を見てみましょう。これに関しては、聖書のどんな教えであっても私たちは律法主義的な人になり得ます。その意味で、「被り物の掟」だけを特化して、律法主義的だと批判するのはおかしいといえます。
1) 先生、ご自身のことと、それから牧会されている教会について少し教えてください。
パトリック・スミスと申します。私はカリフォルニア州チュラ・
2) どのような経緯で、「祈りのベールが今日にも適用される、永続的なシンボルである」ということについて確信を持たれるようになったのですか。
北米の大半のクリスチャンと同様、私も1コリント11:2-16の箇所を、「文化的なもの」として片づけていました。
しかし、約三年前のことになりますが、福音フェローシップという集いを通して、私は被り物が今日にも適用される聖書の掟であると信じる兄弟姉妹に出会ったのです。そのため、説教準備のため、いざ1コリント11章に取り組もうとした際にも、ある程度、私の心は開かれていました。
1コリント11:10の「それも御使いたちのためにです」という箇所にさしかかった時、私ははっと立ち止まりました。御霊がその瞬間、その聖句を光で照らしたかのようでした。
そしてその日初めて、「御使いというのは全く文化とは関係のない存在である」ということに気づいたのです。そしてそこから、パウロが他の聖書箇所においても、創造の秩序、神の国の中における権威の構造、自然という観点から、超越的・永続的な議論をしていることに私の目は開かれていきました。
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「全ての聖句が原則であり、従ってあらゆる時代のあらゆる人々に適用されるべきものだ」と結論づけるか、もしくはその反対に、「あらゆる聖句は特定の(その土地に限られた)慣習にすぎず、その直接の歴史的文脈を超えるいかなる関連性もそこには存在しない」と結論づけるのでない限り、私たちは必然的に、その差異を識別するためのなにがしかのカテゴリーないし基準を打ち立てる必要に迫られます。
この問題を説明するために、まずは「聖句のすべては原則であり、特定の慣習を反映したものなどは皆無だ」と私たちが考えた場合にどんなことが起こるかをみてみることにしましょう。
もしそれが正しいのなら、そして聖句に従順であろうとするならば、福音宣教の手法における、ある抜本的な変化が起こされねばならないことになります。
イエスは仰せられました。「財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな」(ルカ10:4)。
もし私たちがこの聖句を、超文化的原則に当てはめて考えるなら、今後、伝道者という伝道者は皆、裸足で宣教に出かけなければならなくなります!もちろん、この聖句の要点は、裸足による福音宣教を永続的な義務とすることにあるのではありません。
しかし、その他の箇所は、それほど明瞭ではありません。例えば、洗足の儀式について(ヨハネ13:3-17)については、クリスチャンの間では今でも意見が分かれています。これは果たして、あらゆる時代の教会に課せられた永続的な掟なのでしょうか。
それとも、謙遜なしもべとして仕えるという原則を表すための特定の慣習なのでしょうか。靴を履く現代の文化の中にあっては、原則こそ残れども、慣習は消滅すると考えるべきなのか、それとも、そういった靴装にかかわらず、原則と共にやはり慣習も残るのだ、と考えるべきなのでしょうか。
こういったジレンマの複雑性をみるべく、1コリント11章にあるあの有名な「被り物」についての箇所を検証してみることにしましょう。新改訂標準訳では、女性は預言するとき、頭にベールをかぶらなければならないと訳しています。
この掟を自分たちの文化に適用させていく上で、私たちは以下に挙げる四つの選択肢に直面することになります。 Read more
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