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被り物は律法主義的?

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反論:被り物というのは律法主義的であり、律法に逆戻りするものです。私たちはキリストを信じる信仰によて救われたのであって、自分たちの行ないによって救われたのではあありません。被り物をする・しないというのは私たちの救いに影響をもたらすものではありませんから、それを実践する必要はないのです。

被り物(祈りのベール)を実践している人の多くは今日、律法主義的な人だとみなされています。この批判に対してコメントする前に、まずこの語の意味を明確にしておくことが重要だと思われます。

「律法主義」という言葉は聖書中どこにも出てきておらず、聖書の中に登場する人物で「律法主義的」と形容されている人も存在しません。この語は、掟を遵守する上での誤った観点を指し示すものとして人工的に作り出されたものです。一般的に言って、ある人が律法主義的である時、その人は以下二点のうちのどちらかを犯しているといえます。

  1. この人は、掟を守るという行為によって、自分は神との正しい関係を築くことができる(あるいは保つことができる)と考えている。
  2. この人は、「クリスチャンがおのおの自由に決定することのできる事柄」に関して、そこに掟を作り出している。

ます一番目の定義を見てみましょう。これに関しては、聖書のどんな教えであっても私たちは律法主義的な人になり得ます。その意味で、「被り物の掟」だけを特化して、律法主義的だと批判するのはおかしいといえます。

なぜなら、聖書のどの掟であれ、この誤謬を犯す可能性から免除されているものはないからです。(御言葉を守る)従順によって、自分は神から義認を得ているのだという考えは、どんな聖書の掟に関してであれ、起こり得るものです。しかし、ここで明確にしておきたいのは、こういった考えは、異端的見解であるということです。

どんなに善行もしくは掟の遵守に努めたところで、それが神との正しい関係の根拠になる(あるいは保つ)わけではありません。私たちの救いは無償の贈り物であり、私たちの身代わりとなってくださったイエスの全き生と死に基づいています。キリストにある信仰こそが私たちを救うのであって、キリストへの従順ではありません。

私たちは主に対する愛ゆえに神に従うのであって(ヨハネ14:15)、主に気に入ってもらうためではないのです。その意味において、私たちは律法主義的になってしまうことなしに、被り物を実践できる、ということが言えます。

二番目の定義についてですが、これは、キリスト者の選択の自由(Christian liberty)に属する事柄を、命令や掟に変えてしまう行為のことを言っています。

キリスト者の選択の自由とは、神から(「こうしなさい」・「こうしてはいけない」)と命じられていない事柄に関し、クリスチャンが各自、自分で決定することのできる権利のことです。こういった自由は例えば、私たちの服のスタイル、メディア使用の有無(テレビ、音楽、ニュース)、投票の仕方などに関して与えられているものです。

こういったタイプの事柄に関しては、私たちの選択を制限するような「聖書的パラメーター(限定要素)」および、私たちの選択を(第三者に)通知する必要のある「聖書的原則」といったものも確かに存在するでしょう。

ですが、これらに関して、唯一の正しいクリスチャンの解答といったものは存在しません。

あるクリスチャンは参加しても、他のクリスチャンはそれを控える選択をするかもしれません。そしてそのどちらも、それぞれの選択において神に栄光を帰することが可能です(ローマ14:6)。それとは対照的に、被り物というのは、キリスト者の自由ではありません。

ですから、その意味において、律法主義的にはなり得ないわけです。なぜ私たちがそう考えているのか、以前に書いたこの記事(this article)を少しおさらいしてみましょう。

  1. 被り物は、キリスト教会が「堅く」守ってきた教えです。なぜならそれは使徒的権威の元に出された教えだからです(1コリント11:2)。自由の選択に関する事柄は、クリスチャンに対して与えられているのであって、教会に対して出されたものではありません。
  2. パウロは、被り物に関する事で異議を唱えている人々に対し、教会はただ一つの見解しか持っておらず、それが教会の慣習であると言っています(1コリント11:16)。「キリスト者の選択の自由」に関する事柄というのは、一つの見解を保持する立場ではなく、あくまで複数の見解によって特徴づけられるものです。
  3. 文構造が行動を命じています。「髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい」(1コリント11:6)。「キリスト者の選択の自由」に関する事柄は、――行動を命じる――直接的な命令がない場合に存在し得るものです。
  4. パウロはここで、被り物をしないことは、女性にとって自分の頭をはずかしめることであり、恥ずかしいことであり、それは剃り上げた頭の女性にも匹敵することだと言っています(1コリ11:4-6)。

    「キリスト者の選択の自由」に関する事柄というのは、複数の選択肢があることによって特徴づけられており、そういった複数の選択肢はいずれも神に栄光を帰すことができるということを前提にしています(ローマ14:6)。それに対し、ここの聖句におけるパウロの言語選択は何を意味しているかというと、この場合においては、ただ一つの選択肢のみが神に栄光を帰すことが可能だということです。

  5. パウロは、創造の秩序、自然、そして御使いのことを根拠に被り物の教えを擁護しています。「キリスト者の選択の自由」は、聖書が沈黙を保っている事柄について適用されるものであって、擁護(弁明defense)がなされている事柄については適用されません。

被り物というのは、「もしあなたがその掟に従いたかったら従ってもいいですよ。でも従いたくなかったら、そうしなくても結構ですよ。選択はあなたの自由です」という種類のシンボルではありません。

それゆえ、ここで挙げられた律法主義の定義が被り物に当てはまるとは考えられません。それは譬えていうなら、「新しくイエス様を信じた方に、『バプテスマを受ける必要がありますよ』と言うことは律法主義的です」と批判するようなものではないでしょうか。

この場合に「律法主義的」という言葉を使って人を責めるのは、言葉の誤用だと思います。なぜなら、バプテスマは掟(命令command)であって、「受けたかったら受けてもいいし、受けたくなかったら受ける必要はない。あなたが自由に決めていいんですよ」というような種類の慣習ではないからです。

人が、聖書に書かれてある掟に忠実であるよう他の人から奨励の言葉を受ける時、それは律法主義ではなく、れっきとした聖書的キリスト教なのです。

もちろん、被り物は私たちの救いに影響を及ぼす聖書の教えではありません。しかしそうであっても、やはり私たちは、「重大な掟」だけでなく、神が仰せられている事すべてを愛し心を留めたいと願っています。

イエスは言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)。

また「聖書はすべて神の霊感によって」書かれたものですから(Ⅱテモテ3:16)、被り物に関する教えをないがしろにすることはできません。

ですから結論として次のことが言えます。確かにこのシンボル(ベール)を律法主義的に行なうことは可能です。しかし、律法主義の源は、それを行なう人の心にあるのであって、シンボル自体の内にあるのではないのです。

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