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なぜかぶり物?理由その2 【御使いたちのため】

Biblical Case for Head Coverings

『御使いたちのために』かぶり物を着けなさい、という女性に対するパウロの勧告は、この教えが普遍的かつ時間を超越した恒久的なものであることを、全く疑いのないものにしている。 1) K・P・ヨハンナン– Head Coverings (2011, Believers Church Publications) p24

クリスチャンが「難解だ」と感じる聖句の中でもとりわけ、Ⅰコリント11:10はその最たるものかもしれせん。

「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。」(Ⅰコリ11:10)

使徒パウロはただ、御使いのたちのために、かぶり物を着けるべきだとだけ言っています。ですから、この聖句が全的に意味しているところが何であれ、私たちがここで持しているものは、パウロの挙げている理由です。この点は強調してもしすぎることはありません。

この聖句の意味するところを理解しようと努め、もしそれで、私たちが「理解できた」ならそれが理由になる―――いいえ、そうではありません。むしろ、それが理由だからこそ、私たちはそれを理解しようと努めるわけです。

私たちにとって理解の難しい点は、パウロがその意味するところを説明することなく駆け足でこれを言っていることです。これについて考えられる理由としては、「コリントの教会はパウロが何を意味していたかをすでに理解していた。それゆえ説明は不必要であった」というものが挙げられるでしょう。

テサロニケ人への手紙の中で、パウロは、自分が彼らと一緒にいた時に、キリストの再臨についての詳細を話していたと言っています(Ⅱテサ2:5)。これも同様に、彼らがいる前で述べられた教説の一つだったのかもしれません。

この箇所は非常に短く、不明瞭な聖句ですので、絶対的な確実性をもって、この聖句が意味している内容を知ることはできないでしょう。しかし、――この箇所に光を当てることのできる――御使いについての聖句は多いと思います。こういった聖句を検証していくと、私たちは最終的に、真でありうる二通りの結論に行き着くでしょう。

両者は互いに矛盾していませんので、両結論とも正しいと言い得ますが、パウロが意味していたのは、その内の一つであった可能性もあるでしょう。 Read more

References

1.
 K・P・ヨハンナン– Head Coverings (2011, Believers Church Publications) p24

なぜかぶり物?――理由その1【創造の秩序】

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Biblical Case for Head Coverings

「、、、ここで最も驚くべきことは、パウロが、コリントのことではなく、創造のことに論拠を求めていることだ。何であれ、地域的習慣を超えるものは創造に根付き秩序づけられているものである。だからこそ、私はここの聖句をあいまいに扱うことを大変恐れているのだ。」R・C・スプロール 1) R・C・スプロールの説教(‘To Cover or Not To Cover’ available at www.ligonier.org/learn/series/hard_sayings_of_the_apostles/to-cover-or-not-to-cover/)から引用

使徒パウロはⅠコリント11章の中で、(女性たちが)実際のかぶり物を着けるべき四つの理由を挙げています。その中でも最初に挙げる理由が土台です。――つまり、かぶり物が指し示している深遠なリアリティーのことです。

例えば、バプテスマは、古い人に死、キリストにある新しいいのちに生きることを象徴しています(ローマ6:4)。同様に、女性が頭にかぶり物を着けて祈り、男性がかぶり物を取って祈ることにおいても、そこには何か偉大なことが象徴されているのです。さあ、この土台についてみていくことにしましょう。 Read more

References

1.
 R・C・スプロールの説教(‘To Cover or Not To Cover’ available at www.ligonier.org/learn/series/hard_sayings_of_the_apostles/to-cover-or-not-to-cover/)から引用

「ないがしろにされている」教えへの道案内(Ⅰコリント11章)

You can also read this article in English here.
An Introduction to a Neglected Doctrine

祈りのベール(かぶり物)というのは、受けのいい教えではありません。実際、この教えはかなりないがしろにされています。では、私はどうして、この教えに基づいた運動を始めたのでしょうか。私は論争好きなのでしょうか。いいえ、まったくそんなことはありません。分派を起こそうともくろんでいるのでしょうか。いいえ、それもまったく違います。それでは、なぜ私はこんな事を始めることにしたのでしょうか。

 

端的に答えを言います。それはこの教えが聖書に書いてあるからです。もしも「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(Ⅱテモテ3:16)というのがまことに然りならば、聖書はすべて、公平な取り扱いを受けるに値します。

 

それだけでなく、この主題は、聖書の中で言及されているだけでなく、「擁護」されてもいるのです。これは一、二の不明瞭な聖句ではなく、十五節にも渡る連続した聖句なのです。

 

ここの聖句でパウロが意味していたことについて議論することもできますし、この聖句が21世紀にいかに適用されるかということについて議論することもできましょう。しかし、ただ一つ「この主題を無視し去る」――これだけはできないことです。 Read more

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