祈りのベールの証し:アッシュリー・ブラウン

名前:アッシュリー・ブラウン
年齢:22歳
所:米国ニューヨーク州ロングアイランド
祈りのベールをつけ始めた時期:2013年9月

1)読者のみなさんに、自己紹介してください。
私は22歳で、ニューヨークのブルックリン生まれ、ロングアイランド育ちです。
私の趣味は、作曲、ピアノ奏楽、バスケ、それに楽しいこと何でも好きです。私はオープンで社交的な性格です。地元に住んでいる人をみんな知っているというタイプの娘ですが、本当の友だちといえるのは数人です。
私はイエス様が大好きで、主を喜ばせたい、主に仕えたいというのが自分の唯一の願いです。
私の家族はすてきな人たちです!うちはホームスクーリング家庭です。母は賢い人で、主に熱心に仕えています。私の継父は現在うちの教会の賛美リ―ダ―をしています。父はやさしくて、穏やかで、心のひろい人です。私は7人兄弟の真ん中ですが、兄弟仲がすごくいいです。
私は常に宣教に対する情熱がありました。そして今年から中国宣教に関わり始めています。でも何か特別なことをしているわけじゃありません。行く先々で御言葉を分かち合い、世の中のものから聖別された者として、自分の信仰についてお証ししているだけです。
にもかかわらず、神様は働いてくださり、私を変えてくださっています。そのことを主に感謝しています。
2)あなたはどこの教会に通っていますか?教えてください。
私はロングアイランドにある教会(non-denominational)に通っています。うちの教会はかなり大きいです。メンバーは500-600名以上います。やさしく、協力的な人ばかりです。また私はヴォディー・バウハム師、ポール・ウォッシャー師、ビル・ゴサード師の説教が好きです。
3)どのような経緯で、祈りのベールをつけるようになったのですか?
話は中国への長期宣教旅行に行っていた時にさかのぼります。
その当時、数カ月に渡って、神様は私に慎み深い服装をするよう内的示しを与えてくださっていました。でも、慎み深い服装といってもいったい何から始めていいものやらさっぱり分かりませんでした。というのも母教会の人々、学校のともだち、家族みな同じようなファッションをしていたからです。
でも神様はある時点でついに私の服装を決定的に変えてくださったのです。そしてそれは絶妙のタイミングでした。
というのも、私の宣教フィールドは、中国人を除けば、その他は大部分イスラム教徒だったからです。効果的な宣教をする上で、この慎み深い服装というのは大きな役割を果たすと私は思います。
それはともかくとして、聖霊が私にその事をはじめて示してくださった時、私は服装を完全に変えるまで部屋を出ることができませんでした。
私に示された慎み深い服装とは、ロングスカート、それに胸の部分を覆うスカーフでした。そういうスカーフをすることで、体のラインが隠れ、変な注目を避けることができるのです。
でも最初私はおびえていました。なぜって他の人と違っているのが怖かったからです。でも聖霊は私がこれ以外の着方をするのを許しませんでした。
神様に対するこの服従は、正しい決断をする上での一つの大きなステップでした。またこの事を通してさらに自分自身を余すところなく主に明け渡す覚悟ができました。そして自分の育ってきた異教文化からさらに聖別される覚悟もできました。
そんなある日のことです。御言葉を黙想し、深い祈りのうちにあった時、私は1コリント11章の言葉に行き当たりました。
実は以前にもその箇所にぶち当たったことがあり、教会の長老のところに質問に行ったことがありました。すると長老は「この箇所は今日の私たちには適用されない」とおっしゃいました。
私は当時まだ子どもだったのですが、その説明になにか納得いかないものを感じました。とはいえ、私は長老の言葉の影響を受け、それ以上は考えないことにしました。
でも今回その箇所を読んだ時、私はそこを素通りすることができませんでした。なんだか頭がおかしくなりそうでした。だって聖書はここで明らかに二種類のかぶり物のことを言っているではありませんか。
一つは祈りおよび預言する際のかぶり物、そしてもちろん後半の箇所で神様は、私たち姉妹に男性のように髪を短く切ってはいけないことをおっしゃっています。私は家族や親しい友人たちにメールを出し、これに関して意見をきいてみました。
祈る時にかぶり物を着けないのは、髪をそっているのと同じくらい恥ずべきことだと神様はおっしゃっています。髪をそるというのは、当時、不名誉の象徴でした。つまり、これは深刻な問題なのです!
もちろん私のクリスチャンの友人たちは、この聖書箇所をどうにか解釈した上で、「だから結局ここの御言葉に従う必要はない」ということを正当化すべく、いろいろ答えを持っていました。
それで私は考えついたのです、、、いっそのこと神様に祈って、直接主に訊いてみたらどうだろうと。この時点で私はすでに聖霊に示されていたので、かぶり物をつけ始めていました。
私は祈り神様に訊きました。「主よ。本当にこれをつけなければならないのでしょうか?」すると御霊は「もしわたしがあなたにそう示したなら、あなたはそれに従いますか」と私に示してくださいました。
それ以後、私は自分のすべきことが分かりました。たくさんのクリスチャンが変な目で私をみるようになりました。
中には私がイスラム教か何かに改宗したのかと思った人もいる位です。私のことを物笑いの種にし、あざ笑う人たちもいましたが、私は神様がおっしゃってくださったことについて確信がありましたので、揺らぎませんでした。
なぜ自分の頭を覆うのかということについても神様はその理由を明かしてくださいました。それは単に外面的なもの、ないしは慎み深さといった理由だけでなく、私が神様の権威の下にあること、そして結婚後には夫の権威の下にも置かれるということを私に気づかせる目的もあったのです。
そして自分は未来の夫に対して従順である必要があるばかりでなく、神様に「こうしなさい」と言われること全てに対して従順である必要があること――これについても私に気づきを与えてくださいました。
4)ベールをつけて初めて日曜礼拝に参加した時、どんな気持ちでしたか?
中国で通っていたインターナショナル・チャーチの礼拝に、はじめてかぶり物をつけて現れた時、教会の人は私のことをいぶかしげに見ていました。でも毎週毎週、かぶり物をつけて教会にやって来る私を見るにつれ、これは単なる奇習ではなく、もっと深い何かであることに彼らは気づき始めたようです。
多くの人が私のところにやって来て、なぜかぶり物をしているのかと訊いてきました。そしてそれに対し私は理由を説明しました。
しばらくすると、教会の姉妹の多くが私の感化を受けはじめました。彼女たちはまだ実際にかぶり物をつけるところまではいっていませんが、「もしかしたら、これが神様が願っていらっしゃることかもしれない」と心を開き始めています。
その教会はインターナショナルでしたので、かぶり物の習慣を今も守っている文化圏の姉妹たちもいました。たとえば、インド人姉妹は全員、頭にかぶり物をしていました。彼女たちはパウロの書いたあの聖書箇所を非常に真剣に遵守していたのです。ガーナのある地域から来た姉妹たちも祈りのベールをつけていました。
休暇でアメリカに一時帰国した時、母教会に行くのが最初かなりこわかったです。もしベールをつけずに教会に行くのなら、私は内心苦しむだろう。それに魂の内の何かがそれはいけないと私に言っていました。
かといってもしかぶり物をするなら、いろんな人の注目を浴びることになる、、、だって、、こ、ここはアメリカなんですもの!!
ベールをつけ始めた時、私は一種「中東風(といっていいと思いますが)」にかぶり物をつけるよう導かれました。ですから、それは隠そうにも隠せない代物だったのです。それだけじゃありません。私は賛美チームのメンバーでしたので、なんと「ステージの上で」ピアノを奏楽しなくちゃならなかったのです!
とにもかくにも私は礼拝に行きました、、、でも予想に反しておそれていたようなことは起きませんでした。それどころか逆に、人々は私の身なりを誉めてくれ、「いいね」と言ってくれたのです。
誰しも心の奥底では、慎み深く身を包み、スカーフをつけることには、ある種の尊敬が込められており好ましいことだと感じているのだと私は思います。
5)人の目がこわくてかぶり物をつけることができずにいる女性たちに何かアドヴァイスがありますか?
とにかくやってみてください。もし神様があなたを導いておられ、聖霊によって示されているのなら、おそれずに、とにかくやってみてください。
イエス様は、私たちが主のためにいのちを失う時はじめて、それを見い出すだろうとおっしゃっています。また日々自分を否む必要性をイエス様はおっしゃっています。さらに自分に死なない限り、実を結ぶことはできないことを主はおっしゃっています。
また主に従っていくことは、父や母や家族を否むことでもあるとイエス様は言われます。これは大きな信仰のステップであり、これを通して神様と私たちの関係は今までよりもずっと親密かつ個人的なものになります。
かぶり物というこの小さい事に関して主に従うことができるなら、今後さらに大きな事に対しても従うことができるようになるでしょう。
従えば従うほど、キリストにある私たちの人生はより良いものへと変えられていきます。これ(祈りのベール)を従順の象徴としようではありませんか。そして主を信頼していきましょう。
6)あなたはどんなかぶり物をしていますか?どこで購入していますか?
私はスカーフを使っていて、いわゆる「中東風」にかぶっています。つまりスカーフで頭部分と胸の当たりを覆っているのです。私はそれを小物屋さんやスカーフのお店で買っています。
アフリカン・スタイルの帽子やヘッドバンド、頭に巻くスカーフなど他のかぶり方もありますが、そういうファッションでは(アフリカ系アメリカ人である私の場合)かぶり物の真の意味があまりはっきりしないのです。
とにかく聖霊によって私は中東風のかぶり方をするよう示されているので、それにただ素直に従っています。そして私はそこから大きな喜びを得ています。神様を以前よりももっと近くに感じます。またかぶり物は私たちが神様と男性の権威の下にあることを象徴し、思い出させてくれます。
私は父に従順に従い、父を敬う必要があり、結婚後には夫を敬愛し、従う必要があります。
かぶり物をつけたことで、従順という行為に対する私の態度が変えられました。そして天のお父さまにとって聖なる宮でありたい、生けるささげ物となりたいとますます願うようになりました。
ありがとうございました。