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相補主義クリスチャンの方々への公開レター、Ⅰコリント11章 祈りのベールに関して

An Open Letter to Complementarians about Head Covering
Written by: Jeremy Gardiner (Founder, Head Covering Movement)

私は「男性と女性は、それぞれ異なるアイデンティティーと役割を持った存在として、互いに補う合う関係である」という考え方・立場にたつ福音派キリスト者(complementarian〈相補主義者〉)です。

つまり、男性と女性は共に神のかたちに創造され、その価値において平等であるけれども、それぞれが異なる役割を持っているということを私は信じています。

家庭の中においては、夫には妻を導く権威(authority/headship)が与えられており、その一方、妻は夫を助け、夫のリーダーシップに従う(submission)よう造られています。私は、家庭におけるこういった権威と従順は、キリストと主の教会の関係を描写するものであると考えています。

またこれは神がお考えになった元々の構想図ないしデザインだと理解しています。つまり、これは罪による堕落前にすでに存在していた傑作であって、堕落後の災難ではないということです。

私はこういった立場にたち、この真理を擁護しようとしているキリスト者(complementarians〈相補主義者〉)および聖書学者の方々が昨今とみに増えてきていることに励まされています。こういった方々は家庭における男性の権威および女性の従順を尊守しており、また牧師職は男性だけに開かれているという理解に立っています。

私はこの相補主義キリスト者の陣営の中にあって、現在、少数派とみなされている立場にたっています。私は、信者が礼拝のために集まる時、男女間の役割としての違いが――人に対しても御使いに対しても――象徴されるべきだと考えているのです。

つまり、Ⅰコリント11章で教示されているようにかぶり物(祈りのベール)というのは新しい契約下にあって、クリスチャンのための、時代を超えた超文化的なシンボルであるということを信じているのです。

教会の歴史を通しても、祈りのベールに関するこの理解は、常に多数派を占める立場でした。米国においても、――フェミニズムが大衆の支持を得るようになる1960年頃までは――祈りのベールはずっと尊守されてきていました。

「フェミニズム」と「かぶり物の衰退」との相関性については、クリスチャン側からも一般論者の間からも同様の指摘がなされています。例えば、ニューヨーク・タイムズは、婦人用帽子業界の閉鎖の主要因は、フェミニズム運動にあったことを記事にしており、次のように言っています。(here

「しかし(ハチの巣形の)女性の髪型が1960年代に流行し始め、女性が帽子を家に置いて外出するということをフェミニズム運動が容認可能なものとしたことにより、この業界は衰退していった。」 1) Carrie Budoff – Headgear as a Footnote to History (New York Times, April 6, 1997)

フェミニズムの勃興と共に、上述したような、男女間における相補的な立場をとらない考え方(egalitarianism 〈同等主義〉)が教会に浸透し、「家庭において男性と女性はなんら異なる役割を持たない」という思想を広めていきました。

男性には、導くという、神より与えられし責任はなく、女性は自分の夫に従う必要はないというのです。また教会内においては、すべての役職が女性に開かれることになりました。

最近の歴史をみると、相補的な立場にたつキリスト者たちが、男女の聖書的な役割を回復させるべく奮闘してきました。

1987年、「聖書的男性像および女性像回復のための協議会」(Council for Biblical Manhood and Womanhood)が設立され、ウェイン・グルデム氏等が多くの時間を割いて、反対論者たちに対する応答を続けてきました。私はこういった方々の努力に感謝しており、これを支持しています。

しかしこと祈りのベールに関しては、相補的な立場にたつ方々の大部分は、これを回復させるべく努めてきませんでした。

ウェイン・グルデム、トーマス・シュライナー、ジョン・マッカーサーといった、この陣営の指導者の方々は、「男性がかしらであるという原則は存続しているものの、かぶり物の象徴は文化的な慣習であった」と主張しています。

なぜこれが問題となるのか。

かぶり物の原則というのはパウロがコリントの信者に理解してもらおうとしていたことでしたが(Ⅰコリント11:3)、パウロが彼らに望んでいたのは、かぶり物の実践でした(Ⅰコリント11:4-6)。

それゆえ、「相補的な立場」と、それから「かぶり物の拒絶」というこの二つを同時に受け入れるというのは、一貫性に欠けていると私は考えます。

私の懸念は、未来の世代がこの矛盾をみて、聖書的男性像・女性像をもろともに捨て去ってしまうことです。私たち相補的な立場をとるキリスト者がかぶり物についてどのような姿勢をとるかということが今後、試金石となっていくと思います。

前述したウェイン・グルデムですが、彼はかぶり物が教会にとって時代を超越したシンボルであるとは考えていません。

しかしその一方、彼は相補的な立場に異議を唱える考え方(egalitarianism)に対し、その一貫性の欠如を公に指摘しています。男女の役割に関する聖句に再解釈を加えることは、聖書を損ずる行為であり、リベラリズムへの下り坂につながっていくとグルデムはみています。

その一方、――相補的な立場をとってはいないけれども――福音主義キリスト者である方々(egalitarians)の多くが、リベラル的な聖書の見方を退けている、とそのことにグルデンは感謝しています。

「しかしそうは言っても」と、彼は続けて言います。「たしかに今の時点で、〈同等主義〉クリスチャンの多くはまだ、保守的な聖書神学を堅守している。しかし未来の世代はきっとそうでなくなるだろう」と懸念し、次のように述べています。(here

「ある人がこういった〈同等主義的〉主張点の一つを受容したにもかかわらず、その後一生涯に渡って、――下り坂へと続くその一歩以外には――リベラリズムへの道を下降しなかったということはありえます。現に多くの指導者たちがそのような道を歩んできました。

しかし私は思います。彼らがそれ以上リベラル化しなかった理由は、1)彼らが自分たちの展開しているその種の議論が「包含」している内容にまではタッチしなかったこと、それから、2)自分たちの信じる、その他の(神学的・信仰的)領域には、それを適用させなかったこと。この二点が挙げられると思います。

しかし、そういった指導者に現在従っている人々となると話は違ってきます。これに関し、何年も前にフランシス・シェーファーは次のように警告していました。

「教理的に教会を横道にそらせた一世代目のキリスト者たちは、その教理的立場において、ただ一つのキーポイントを変えただけで、それ以外には何も変更を加えなかった。だから、当面の間は、その変化が別段害のないもののように思えもしたのだ。しかし、次世代に続く者たちは、その議論のロジックをさらに推し進め、さらに甚大な誤謬を推奨していくようになるのだ。」 2) Wayne Grudem – Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism? (Crossway, 2006) As quoted from the Introduction found here: http://thegospelcoalition.org/blogs/justintaylor/2013/06/12/an-open-letter-to-egalitarians-about-liberalism/

かぶり物を拒絶している相補的な立場のキリスト者についても私は同じ懸念を抱いています。残念なことに、これは仮想上の懸念ではないのです。

現にレイチェル・ヘルド・エヴァンズをはじめとするクリスチャン・フェミニストは、私たちのこういった矛盾点を取り上げているのです。

「『エペソにいる女性たちに関するパウロの教示は普遍的に拘束力がある。なぜなら、彼はこの主張をする上でその理由を創造の秩序に訴えているからだ』と言っている人たちは、次のことを実践した時はじめて、その立場において一貫性があるといえます。――つまり、彼らが自分の教会にいる女性たちに対しかぶり物を着用するよう要求するなら、です。というのも、上記の点を推奨する上で、パウロはまさにこれと同じ線上の議論を展開しているからです。(Ⅰコリント11章を参照)」

また、相補的な立場の人々の中には、「かぶり物の問題に照らしてみた場合、男性の牧師職に関する議論を創造の秩序に訴えていいものかどうか」と次のように疑問を抱き始めている人もいます。

「私は次第に自分自身の、――例えばⅠテモテ2:9-15などに対する取り扱いが、〈同等主義的〉解釈に対し敏感に応答するものではなかったのではないかという認識にいたっている。例えば、これまで私は、パウロがここで言っている命令は明らかに超文化的なものだと考えてきた。なぜなら、それは彼の創造の教理に基づくものであるからだ。しかし、Ⅰコリント11章におけるパウロの指示――私はいつもここの箇所を文化的に条件づけられたものと受け取ってきた――もまた、創造の教理に基づくものであることに気づいた。それならば、原則として、創造の教理に基づいた勧告は必ず超文化的なものであると主張する理由はなくなってしまうではないか。」

今後、この矛盾点に気づく人々がさらに増え、そういった人たちが、かぶり物を受け入れる代わりに、むしろ相補的な立場もろとも捨て去ってしまうのではないかと私は懸念しています。

でも変化を起こすのに遅すぎるということはありません。もしかぶり物の慣習が回復すれば、相補的な立場はさらに多くの人々によって受容され、後に続く教会史を通しても長く存続していくだろうと私は信じています。

聖餐は主を思い起こさせるものとして私たちに与えられています。それにあずかる時、十字架上でイエスが私たちのためになしてくださったことを私たちは思い出します。同じように、かぶり物は聖徒が集まる教会において、――神が異なる役割を果たすため男性と女性をお造りになられたということを――思い出させ、ビジュアルな形でそれを教えてくれるのです。

Head Covering Movementには、かぶり物というこのシンボルを受容した後、この真理をさらに生き生きと想起するようになったという女性たちの証しがよく寄せられています。

一例を挙げると、ワシントン在住のローラ姉妹(testimony)は、次のように言っています。

「教会の中でささげる私の祈りに変化が表れました。なぜなら今、私は目に見えるシンボルであり、神さま及び夫に対する従順を思い起こさせるかぶり物を着けて祈り礼拝を捧げているからです。悪魔は私が神様に従順でないように、また夫に対しても従順でないよう誘惑してきますが、権威のシンボルであるかぶり物を着ける時、このことについて思い出さざるをえず、私は謙遜にされます。」

ですから、相補主義の立場にたつ兄弟姉妹のみなさん、この問題について少し時間をお取りになり再考してみてくださいませんか。

そして開かれた心を持って、時代を超越するかぶり物の教えについて考察してみませんか。私の願いはあなたがそうしてくださることです。なぜなら、この問題をめぐっては、シンボル以上のものがかかっているからです。

References

1.
 Carrie Budoff – Headgear as a Footnote to History (New York Times, April 6, 1997)
2.
 Wayne Grudem – Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism? (Crossway, 2006) As quoted from the Introduction found here: http://thegospelcoalition.org/blogs/justintaylor/2013/06/12/an-open-letter-to-egalitarians-about-liberalism/

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