牧師の証し:ロビン・バッサム師
1) こんにちは。ご自身のこと、それから牧会しておられる教会のことについて、少しお話くださいますか。
ロビン・バッサムと申します。英国のロンドン生まれです。1970年、25歳の時ですが、私は福音自由教会でイエス・キリストを信じ救われました。1974年、私はノルウェーの地で主に仕えるよう、主からの召命を受けました。
1983年にノルウェーに来て以来、私は長年にわたり、ノルウェー北部の地で主に仕えてきました。七年前に、私たちは開拓を始め、Trondheim International Churchが誕生しました。この教会は英語による、無教派の教会です。
12名の同志と共に開拓を始めましたが、現在は35名から40名ほどの信者が集まるようになっています。メンバーの国籍もイギリス、ノルウェー、カナダ、ルーマニア、ウクライナ、ベトナム、シンガポール、ガーナ、フィリピンと多岐にわたっています。
2) どのような経緯で「祈りのベールは今日にも適用されるべき不変のシンボルである」ということを確信されるに至ったのですか。
救われた当時通っていた福音自由教会は、神学的にはカルヴァン主義の改革派教会でした。そこの牧師は被り物が今日にも尊守されるべき掟であることを信じており、教会に集う女性たちの約半数が被り物(主として帽子)を被っていました。最初牧会した4、5の教会においては、比較的多くの女性がベールを着けていました。しかしその後私が牧会した教会では一つとして被り物の実践はなされていませんでした。
エリム聖書大学(英国におけるペンテコステ系の聖書学校)で私は一度、1コリント11章の祈りのベールの今日性を問うディベートに参加したのですが、気が付くと私は被り物を擁護する側に立っていました。しかしその時には、被り物のこと自体を擁護していたのではなく、ただ「被り物をしたい女性がいるとしたら、その人にはそれを選択する権利がある」という点を擁護していたのです。
その後、数多くの女性たちが私の所にやってきて、「先生、私たちが被り物をする権利があるということを言ってくださり、私たちのことを擁護してくださってありがとうございました」と感謝の意を表されました。
その後次第に私は、1コリント11章は、祈りのベールについて非常に明確に教えていることが分かってきました。新しくイエスを信じたばかりの人が(教派的先入観なしに)この聖書箇所を読むなら、誰でも皆、これは時代を超えた不変の神の掟であり、公的礼拝の時、女性は頭を覆う必要があるということを理解するでしょう。
3) この事項に関するあなたの神学的見解に変化が生じたということを、あなたは信徒の方々にどのようにして知らせたのですか。
約二年前にさかのぼりますが、主は私に、今日の福音派キリスト教会の悲惨な状態のことをお示しになり始めました。教会の中に聖さがないこと、礼拝がもはやエンターテイメントに置き換わってしまっていること、福音をまっすぐに説く説教や教えが欠乏していることなど、主は私に示してくださいました。
こうして私は、自教会の方向性や神学に関し、意図的なUターンを決行することにしました。私たちは皆で、ウェイン・グルデムの『組織神学』Wayne Grudem’s Systematic Theologyとジョン・パイパーの『神を求める』John Piper’s Desiring Godを読み始めました。そしてこうした教えを支持している方々とも交わるようになりました。
そして今年の7月、私たちは相補主義(Complementariansm)と対等主義(Egalitarianism)について学ぶことにしました。私は両サイドの立場を検証し(相補主義としてはウェイン・グルデムの『福音主義フェミニズムと聖書の真理』Evangelical Feminism and Biblical Truth、そして対等主義側の著作としてはピアース・グロティウスの『聖書的平等の発見』Discovering Biblical Equalityを読み、多くのメモを取りました。)
そしてその記録をサーシャ姉妹(ウクライナ出身の方で、私たちの同労者)に送りました。すると彼女は返信をよこしてきたのですが、そこには驚くべきレクエストが添付されていました。以下が彼女の書いてきたことです。
「先生の記録ノートの中には書かれていない内容ですが、私はあるテーマについてぜひ教わりたいと思っています。―それは、クリスチャン女性の被り物について、です。私はウクライナにある伝統的なペンテコステ教会で育ったのですが、そこの女性たちは全員、スカーフで頭をおおっていました。ノルウェーに来て、ノルウェー人と結婚し、私は「この被り物から逃れたい」って思ってました。でも、、、先生、ぜひ一度、このテーマについて教会で私たちにお話くださいませんか。」
そこで私は、相補主義を包括的に取り扱う中で、その一環として祈りのベールのことも教えることにしました。そしてこの主題について教える前に、私は教会のみなさんにこう語りかけました。「みなさん、私はこれまで35年間、牧会してきましたが、祈りのベールについて教えるのは今日がはじめてです」と。そして現在のところ、この教えをしているクリスチャンは少数であり、自分はその少数派の一人だと説明しました。
この主題に関し、説得力をもって語るために、私は(中途半端ではなく)徹底的に信徒のみなさんに説明することが必要だと思いました。「被り物は今日にも適用されるべき主の掟であること」に対するあらゆる反論について検証し、それに対して答える用意がなければならないのです。こうして私は「クリスチャン女性は今日も教会で被り物を着けなければならないのでしょうか」(Should a Christian Woman Cover Her Head In Church Today?)という教材を作りました。
私はその後、四週間にわたって、毎日曜日、ベールの教えをしました。
第一週目:ベールの教えへの入門。それから今日の論争点についての背景説明。
第ニ週目:1コリント11章1-16節を、節ごとに区切って解説しました。
第三週目:ベールに関する主な反論点(そのうちの15点ほどを取り上げました)に対する回答。姉妹たちとの質疑応答。それから、初代教父のベールの教え、および1950年間つづけられてきたキリスト教会のベールの慣習についても説明しました。
第四週目:私たちの倣うべき模範としての、キリストのへりくだりと服従について。最近、祈りのベールを着けるよう導かれた姉妹たちの証しの紹介。
第四セッションの時までに、四人の女性たちがベールを着け始めていました。前述のサーシャ姉妹もその中の一人でした。第三週目の日曜日、彼女は私に言いました。「先生。私、納得しました!これはやっぱり、聖書的な神の掟です。」
4) 1コリント11章を説教された時、教会のみなさんの反応はどうでしたか。
教会のみなさんの反応は「すばらしい」の一言に尽きます。私自身が、この教会の開拓牧師だったことも幸いしたのかもしれませんね。若い時は、教えよりも説教を好んでいたのですが、今、私は説教と同様、教えをも好むようになっています。そして教会のみなさんも聖書の教えを熱心にきいておられます。
レイチェル姉妹はうちの教会の賛美リーダーなのですが、彼女はかなり慎重派でした。もし彼女が被り物をすることになったとしても、おそらくそれは最後の最後になるだろうと私は思っていました。
しかし、です。先週、私は彼女が交わりの場で次のように言っているのをふと耳にしたのです。「ジョイ姉がベールを被り始めた時、私、かなり懐疑的でした。すごく変って思いました。でもロブ先生のベールの教えを聞いて、私はショックを受けたんです。だって、本当にこの教え、明白じゃないですか!それで私は、これから教会に集まる時には、いつもベールを着けることに決心しました。」
そしてその言葉通り、先週の日曜日、彼女は初めてベールを被って礼拝にのぞみました。この教えをする前には、ベールを実践している女性はたったの一人でした。しかし今はそれが六人に増えました。
5) 祈りのベールというこのシンボルについて、最近、「
いかにしてそれを教会のみなさんに仕え、
ある教会でうまくいったことが他の教会でもうまくいくとは限りません。私とは全然違うアプローチをとる方が、結果としてその教会で非常に効果的に教えを導入することができたということもありえます。
とはいっても、実際、このテーマに関する私の教えを聞いた女性たちのうち六人がそれに応答し、被り物を始めたことは実に驚きでした。それでは以下、同胞の先生方に何点かアドバイスをさしあげたいと思います。
主題を熟知してください。私はこのテーマについて何年も学びました。ウォッチマン・ニー、K・P・ヨハンナン、ザック・プーネン、The Head Covering Movementのサイト、その他、入手することのできるあらゆる参考資料にあたりました。そしてネット上でも最新論文が出るたびにそれらを参照しました。
また、1コリント11章の聖句を検証する上で、ギリシアのインターライナーや、ヴァインの新約聖書ギリシア語辞典をも用いました。そして独自の教材(Teaching Manual)も作成し、それを少なくとも五回改訂しました。また考えられ得る、ありとあらゆる反論についても検証を続け、それらに対し明確に回答できるよう努力しました。ですから、このテーマについて教えを始める前に、しばらく準備の時をもたれることをおすすめします。
信徒のみなさん一人一人を知り、犠牲的な愛をもって彼らを愛してください。牧者というのは、牧している人々のことを知り、彼らを愛すべきです。もし信徒のみなさんがあなたのことを愛しており、彼らもまた、あなたの愛をひしひしと感じているのなら、彼らはあなたの言うことに耳を傾けるでしょう。そしてあなたに敬意を払い、ついてくるでしょう。
堂々と、且へりくだった態度で教えてください。「このテーマはいろいろと論争の的になっておりまして、、、」などとお詫びしながら教えることはやめてください。教える時には堂々とした態度でのぞんでください。そして信徒のみなさんに対してしもべの心をお持ちになってください。
あなたは彼らに仕えるためにその場に遣わされており、一人一人の魂のために、自分にできる最善を尽くそうと願うことが大切だと思います。被り物がもたらす祝福や喜びといったものを語ってください。またユーモア感覚のある方なら、それも用いてください。ユーモアというのは時として、緊張をほぐすものにもなります。