被り物:痛みと特権
〔ゲスト投稿:この記事はカールトン・マックレオド師によって書かれたものです。Head Covering Movementにゲスト投稿を考えておられる方は、contact usにご連絡ください。〕
カールトン・マクレオド師はサウスカロライナ州コロンビア生まれで、メリーランド州のアッパー・マルボーロで育ちました。1987年、マクレオド師は米国海軍に入隊、03レベルまで昇格しましたが、主はその後、彼を教会におけるフルタイムの働きに導かれました。1997年、マクレオド師と妻のドンナさんはカルバリー・リバイバル教会(Calvary Revival Church Chesapeake)を開拓しました。
マクレオド博士は、聖書的な世界観を追及し、それを教えています。牧会の初期、師はあらゆる世的な方法論を駆使して、暗闇に住む若者たちを更生させようと努力しましたが、実は生らず、主は「聖書に徹底的に立ち返るよう」彼を促しました。こうして御霊に導かれた聖書的(家族単位の)弟子育成の必要性に気づかされたマクレオド師は、D6 Reformationという働きを始めるよう導かれたのです。マクレオド師は、ハンプトン大学で学士を取得後、アンダーソンビル神学大学にて修士および博士号を取得しました。師とドンナさんは1992年に結婚。お二人の間には一男二女(ジョナサン、ドリー、アルヤナ)がいます。
2013年1月、私は第一コリント人への手紙を講解説教するよう、主の導きを受けました。この書簡の内容を思うと、私は血気立つ一方、不安にもなりました。なぜでしょう。というのも、この書簡の中には、私たちが従うようにと主に求められている内容が多々包含されているからです。
実際私は、「これが私たちの教会に対するあなたの御心でしょうか」と祈りの中で一度ならず主にお尋ねしました。また長老たちにも相談しました。私たちはそれについて話し合い、祈りました。それにしてもどうしてこれほどのためらいがあったのでしょう。なぜなら、第一コリント書は――他の聖書箇所と比べても――かなり「恐ろしい」書簡だからです。こうして私たちは2013年5月に、祈りのうちに講解説教を始め、それは2014年12月まで続きました。
でも確かに、私の恐れは根拠のないものではなかったのです。そうです。この書簡は私たちの教会に衝撃を与えました。なぜなら私たちはいわゆる「解釈が困難」といわれている聖書箇所であっても、ないがしろにしたり、言い逃れしたりすることを拒み、文脈の意味に忠実でありつつ、とにかく正面から体当たりすることに決意したからです。
そしてその結果はどうだったかといいますと、、、私たちは教会の人々の気分を害してしまいました。教会を去る人々も出ました。また私に対し、ますます非難が集中するようになりました。なぜ、そういうことになったのでしょう。それはなぜかと申しますと、聖書のこの書簡の中には、現代人の好まないトピック――特に、教会での規律、霊の賜物、教会での秩序、そしてジェンダー問題など――が多く含まれているからです。それが事の真相でした。
特に、1コリント11:2-16はかなり「しんどい」箇所でした。私は最善を尽くし、この聖句を、歴史的文脈の中において説明しました。また歴代のキリスト教会がいかにこの(祈りのベールの)掟に応答してきたのかということも、時間をとってみなさんに示しました。しかしやはり、教会の女性たちの多くにとって、これは聞くに堪えない内容のものでした。何人かはこうして教会を去りました。
もちろん、被り物の説教をしたから教会を去ったとは、遠慮して誰も何も言いませんが、私は知っています。はたして、そうだったのです。しかし幸いことに、数人の女性たちは被り物を始めました。またベールを始めたり、やめたり、また始めたり、、、と、まだ優柔不断の状態にある女性たちもいます。一方、教会の男性たちは一様に「頭を覆わず」、礼拝に参加しています。
被り物がうちの教会の女性たちにどのような影響を及ぼしているかについてですが、正直、私には分かりかねます。男として、それは私の知らざる領域だからです。ただ想像できることとしては、彼女たちは羞恥心と戦っているのでしょうか。あるいは気まずさと。被り物を始める決心によって、着る服装にも変化が呼び起こされるのでしょうか。また、それに関連した慎み深い服装のことも挙げられるかもしれません。
それから、セルフ・イメージに対する取り扱い。これまで感化されてきたフェミニスト的思想との対決。男性の権威に対する恭順等、、、そしてこういったもろもろの問題が、祈りや預言の際に着ける「被り物」という一枚の布きれの中に集約されているのです!理論では分かっているつもりでした。でも実際に始めてみて、自分はそれらの事が本当には分かっていなかったことに気づきました。
とにもかくにも、私たちは細心の配慮を施し、誰もこの問題で「自分は裁かれている」と感じることがないよう努めました。でもそれは避けられない問題でした。そしてそう感じてしまった方々のことで私たちの心は痛みました。被り物という、はっきり目に見えるシンボルゆえにこういった問題が起こるのでしょう。
こうして私たちは愛を込め、教会の女性たちに対し、「それぞれの家族の決断」に基づき、ベールを実践するか、しないかの二択をする選択肢があることをやさしく説明しました。しかしこの過程は一筋縄ではいかない、困難なものとなりました。状況が落ち着くまでに、実にまるまる一年かかったのです。
一方、すばらしいことに、これらを通して、私たちの教会は強められました。新たな魂も加えられました。信仰も深められました。私たちがこの使徒的教えを真剣に受け取った結果、神は、「その行ないによって私たちを祝福」してくださったのです(ヤコブ1:25)。
ええ、もちろん、これは現代人の感覚では、少々奇妙に見え、またそう感じられるかもしれません。――なにしろ、2015年という現代にあって、妥協することなく、こういった聖書的掟を尊守しようとしているのですから!私たちは多くの間違いをしてきました。主はそれをご存知です。でも私たちは前に進もうと努めています。主よ、あなたの恵みに感謝します。
この書簡は――きわめて人間中心的な傾向を強めている現代の教会に対し――挑戦状を突きつけてきます。そしてこれは良いことだと私は考えています。アメリカの教会は現在、なぜ苦しんでいるのでしょう。それは、我々が神の御言葉を本気かつ文字通りに受け取っていないからではないでしょうか。
事実、教会は預言的な声を失っています、、、「主はこう仰せられる」とあえて宣言するその「声」を教会は失ってしまっています。そしてその結果、全世界は傷を負い、痛み苦しんでいます。(私はこのテーマについてこの本http://www.crcchesapeake.org/the-playbookを出版しました。)
確かに、1コリントの書簡は、痛みをもたらしました。しかし、次のことを私はどうしても申し上げなければなりません。―それは、この書簡の中で主が仰せられていることを聞き、そしてそれに対して最善を尽くし従っていくことは、――それによって払うべき代価に関わらず――真に価値ある特権だったということです。
Soli Deo Gloria!(ただ神にのみ栄光!)
1コリント11:2-