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あなたは独りで立ちますか?――祈りのベールを着ける最初の人になろう!

Will You Stand Alone?: A Call to Be the First to Cover

独りで立つのは大変なことです。本当に大変なことです。

自分の性分に合わないことをし、また他の人と違っているというのはしんどいことです。寄らば大樹の陰ということわざの如く、大多数の中にいれば安全です。

ジロジロ見られたり、さげすまれたり、笑われたり、仲間外れにされたりしたい人なんて誰もいません。おかしな変わり者と思われたい人なんて誰もいません。

「祈りのベールをつけるのは今日にも適用されるべき聖書の掟だ」ということを確信するにいたった多くの女性にとって、これを独りで実践しなくちゃならない――それが、一番こわい部分でしょう。

ひとりぼっちのダンサー

数年前、TEDのトークショーを観ていたのですが、どのようにしてあるモ―ブメント(運動)が始まるのかについて説明していました。

スピーカーがビデオをみせてくれたのですが、それを観ると、一人の若い男が外で独り踊っていました。

彼の周辺の人々はといえば、皆、ゆったりくつろいでおり、日光浴をしていました。そんな中、この男はばかみたいに独りでがんがん踊っていたのです。

「このひとりぼっちのダンサー、この人がリーダーなんです」とスピーカーは言いました。

その後、もう一人の男がダンスに加わり、二人して踊り始めました。こうしてさらにもう一人が加わり、さらにもう一人と参加者が増えていきました。

そうするうちに、一群の人々がいっしょになって踊り始めました。

「さらに大勢の人が加わるにつれ、それはもはやリスキーなものではなくなるのです。目立つわけでもないし、笑い者にされる心配もありません」とスピーカーは続けました。

他の人も大勢やっているので、群衆は安心して踊れるのです。つまり彼らは多数派なのです。

しかし、これは最初のあの勇敢な男なしには生じえませんでした。誰かが立ち上がり、始める必要があるのです。そうしてその人が始めることにより、他の人はそれに続きやすくなるのです。

最初の人となって

なぜ女性たちが祈りのベールを着け始めたか(あるいはやめたか)という証しを聞きながら気づいたことがあります。それは、多くの場合、彼女たちの通う教会で他の人がどのようにしているかということに関連しているのです。

デスィリー・ハウサム姉妹は、「友人が、帽子をかぶって礼拝に参加はじめたこと」がきっかけとなったと証ししています。

このような友人の姿を見たデスィリー姉妹とご主人は、かぶり物について再び聖書を学び始め、やがて自分たちにも確信が与えられると、彼女は祈りのベールを着け始めたのです。

同じように、ダニカ・チャーチル姉妹は、「ある家族がうちの教会に通いはじめたのですが、彼女たちはかぶり物をかぶって教会にやって来ました。ちなみに当時、うちの教会でかぶり物をつけている人は誰もいませんでした」と証しの中に書いています。

その家族は独りで立たなければならなかったのですが、結局それがダニカ姉とご主人に感銘を与え、この御夫妻は自分たちで御言葉を探究し始めたのです。

現在、その教会では、チャーチル夫妻だけでなく、牧師夫妻を含めた多くの兄弟姉妹にも確信が与えられ、姉妹たちが祈りのベールをつけています。

「祈りのベールは今日も適用されるべき聖書の掟だ」という確信をするにいたった女性たちは教会の中にたくさんいます。しかし、彼女たちは独りで立つことをおそれています。

このサイトに寄稿してくださったある女性は、自身のかかえているジレンマを次のように表現しています。

「かぶり物をつけて祈っている姉妹を地元で見つけるのは至難の業です。もし自分の住んでいる地域にそういう誰かがいたら、そして一緒に祈りのベールをつけ始めることができたら、私はもっと容易に実践できていただろうと思います。

ベールをつける必要があるのは分かっています。でも私はやらないと思います。それを実践すると考えただけでも神経が疲れます。そうすることが望まれているのは分かっている。

でも依然としてやりたくないと思っている自分がいるんです。――そうする必要があると知っているにもかかわらず。」

人目が怖くて御言葉に従えない――とはいっても、それでこの掟に従わないことが正当化されるわけではありません。でも、私は彼女たちに同情したいと思います。

彼女が独りで立つ必要がなかったのなら、どんなにかよかったでしょう。ある人がその行ないにより模範を示すことによって、他の人が勇気付けられ、後に続くことができるのです。

アリス姉のようになろう

もしあなたの教会にかぶり物をつけている人が誰もいないのでしたら、どうかアリス姉のようになってください。

彼女は「かぶり物に関する確信を何年も前に与えられていたにもかかわらず、プライドと見栄のため(目立ちたくない、人目が気になる、、)良心の声を打ち消していました」とこのサイトの寄稿文の中で言っています。

アリスは独りで立ちたくなかったのです。

しかし彼女曰く、悲しいことに「その後4年に渡って、私は霊的に葛藤しつづけました。というのも、自分の心に真っ正面から向き合った時、このベールの問題を再び見出しつつも、ああ、これについてはこれ以上考えたくないと考える自分がいたからです。」

なにかをすべきと分かっていながらそれをしないのは罪です(ヤコブ4:17)。アリス姉が証言しているように、悔い改められないままの罪は、私たちの霊的成長を大きく阻みます。

彼女はこう続けてこう言っています。

「今まで公の礼拝でベールをつけたことはありませんが、今週の日曜日から始めようと思っています。そのことで人に注目されるんじゃないかと思うと怖さに心がふるえますが、神様に対する従順というのが、他の何にまさって大切だということを今理解しています。ですから、私はこのステップを踏む決心をしました。」

独りで立つ人は、リーダーであるだけでなく、しもべでもあります。

彼女たちは、こういった大変なことを仲間の姉妹たちのためにやることによって、同胞姉妹たちに仕えているのです。

彼女たちはあざけりに耐え、「私自身は〈変な人〉と思われてもいい。もしそれによって、仲間の姉妹たちが白眼視されずにすむなら」と覚悟を決めているのです。

そうして彼女は従順を通し、他の女性たちが後に続きやすいようにしてあげているのです。

それだけでなく、デスィリー姉とダニカ姉が証ししているように、そういった姉妹の従順の行為により、他の人々もかぶり物の真実について自ら聖書を探究するよう導かれているのです。

それで私はあなたにお尋ねします。あなたは独りで立ちますか?

教会の中で最初にベールをつける女性になることによって、同胞の姉妹たちに仕えたい、そう思いますか。

もしそういう思いがあるなら、あなたは例のダンサーのようになるでしょう。そうしてやがてあなたを見倣い、人々があなたの周りに群がってくることでしょう。

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