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なぜ被り物は、ユダヤ人の慣習ではなかったのか。

Why Head Covering Was Not a Jewish Custom

1コリント11章で、使徒パウロは、女性たちが祈りや預言をする際に、被り物(祈りのベール)をかぶるよう命じています。しかしこう言ったときに、まず来る反論というのが、「いいえ、パウロはあくまでその当時の特定文化において、被り物の掟を出したに過ぎないんですよ」というものです。

しかしながらそうおっしゃる方に対し、私はまず次の問いかけをしたいと思います。「あなたのおっしゃる『当時の文化』の『文化』とは、いったいどの文化のことですか?」コリントは、多文化都市でした。ですから、ここでパウロがコリントの信者たちに対し、適応しなさいと言っているのはどの文化のことだったのでしょうか。このシリーズ記事で私たちは、それに関連する三つの文化、――すなわち、1)ギリシャ文化、2)ローマ文化、3)ユダヤ文化、この三つをみていきたいと思います。そして今日のこの記事では、

「パウロが女性たちに被り物をするよう命じたのは、信者たちが「ユダヤ文化に対し無礼にならないように」との理由ゆえだったのでしょうか。」という質問にお答えする形で論を進めていきたいと思います。

エルサレム会議

紀元48-49年頃、使徒や長老たちは、主の元に導かれた異邦人信者たちに何が求められているのかついて議論するために、共にエルサレムに集まりました。その際、パリサイ派の者で信者になった人々の何人かが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」(使15:5)と主張しました。実に、こういう主張が持ち上がったからこそ、この会議が招集されたのです。こうして話し合いの結果、彼らは結論を出すにいたりました。そしてそれを文書の形にしたため、彼らは次のように諸教会に書き送ったのでした。

「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」(使徒15:28-29)

このようにして、ユダヤ的慣習につまずきを与えないために、異邦人たちは四つのことを避けるよう指導を受けたのです。つまり、「次のぜひ必要な事のほかは、、どんな重荷も負わせない」よう、それ以外のことはなんら要求されないということが決定されたわけです。ですから、彼らは割礼を受ける必要がなく、各種祭りや祝祭を守る必要がなく、特別な洗いの儀式をする必要がなく、そして頭に「被り物をかぶる・かぶらない」といった掟の必要もないとされたのです。

異邦人信者たちには他のどんな慣習も要求されませんでした。そしてこの点は重要です。なぜなら、コリントの教会は主として異邦人信者から成っていたからです(1コリ12:2)。ですから、もしも「ユダヤ人につまずきを与えないために」という理由で、パウロが異邦人コリント人たちに被り物の実践を命じていたのだとしたら、それはエルサレム会議で決定された指示と矛盾してしまうことになります。

歴史的証拠

被り物に関するこの掟がユダヤの慣習に基づくものではない第二番目の理由を挙げます。それは、「男性の被り物に関するユダヤ人の慣習は存在しないから」です。普通、「被り物」というと、たいていの人は女性のベールのことを連想すると思います。しかしながら、パウロはここで男性たちに対しても次のような指示を出しているのです。

「男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。」(1コリント11:4)

ということは、もしも「ユダヤ人へのつまずきを避ける」ということがパウロが指示を出す所以であったのなら、もちろん、そういった彼の諸指示は、1世紀のユダヤ人の慣習にマッチしていたに違いないと、私たちは予想するはずです。そして確かに、女性に対する指示に関していえば、それはマッチしていました。というのも、当時のユダヤ人女性は頭に被り物をしていたからです。しかしながら、ユダヤ人男性はどうだったかといいますと、彼ら男性たちには被り物の慣習はありませんでした。以下、ユダヤ系の資料からその事実を確認してみることにしましょう。

ラビであるアブラハム・エズラ・ミルグラム氏は次のように言及しています。

「たしかにタルムード期には、頭を覆う行為は、尊敬の徴とみなされていました。しかしながら、神殿の中庭や初期シナゴーグ内にいたユダヤ人に、被り物着用が要求されていたことを示す証拠は不十分です。」 1) From Kippot (Head Coverings) in Synagogue accessed on April 20/15 at http://www.myjewishlearning.com/article/kippot-head-coverings-in-synagogue/.

ユダヤ教のシンボルに関する事典(The Encyclopedia of Jewish Symbols)も次のように確証しています。

「大祭司は、ミズネフェット(mitznefet, miter)と呼ばれる特別な被り物を着けており、一般祭司は、ミグバアート(migbaat)というターバンを着用していました。しかし一般のイスラエルの民について言えば、彼らには被り物に関する指示は何ら出されていませんでした。」 2) Ellen Frankel and Betsy Teutsch – The Encyclopedia of Jewish Symbols (1992, Rowman & Littlefield Publishers) page 91. Similar wording also appears in the  JPS Guide to Jewish Traditions (2004, Jewish Publication Society) page 375.

世紀のタルムード期になって初めて、男性の被り物というユダヤ教の慣習が顕れたのです。この慣習は、パウロが命じていることと全く正反対の慣習であり、今日に至るまで行われています(Kippah)。

「ユダヤ教のシンボルに関する事典」によると、この慣習が生じた要因は、「主として、クリスチャン〔の男性〕が、被り物をせずに祈ることに対する反動だった」と記されています。3) Ellen Frankel and Betsy Teutsch – The Encyclopedia of Jewish Symbols (1992, Rowman & Littlefield Publishers) Page 91

それでは、これは何を意味するのでしょう。そうです。つまり、パウロの生きた時代には、被り物をかぶっていたユダヤ人男性も、またそうでないユダヤ人男性も、両者ともに、奇怪な目でみられることなく、また、被る・被らないは、人々に不快感を与えるものではなかったということです。

要(かなめ)となる点はここです。つまり、男性に対するパウロの指示は、命令(必須、mandatory)であり、そこには倫理的な意味合いが含まれていたということです。つまり、男性が、祈りや預言をするとき、頭に被り物を着けていたら、「自分の頭をはずかしめることになる」(Ⅰコリ11:4)と。ここでパウロは「そうしてもいいし、しなくてもいいですよ」という選択の用語ではなく、義務・おきて(obligation)としての用語を用いています。

ですから、ここで次の疑問が打ち出されるわけです。つまり、それならなぜ、そもそもパウロは、「ユダヤ人の慣習につまずきを与えてはいけない」と、異邦人男性たちに対し、頭を覆わないよう命じる必要などあったのでしょう?おかしいと思いませんか?というのも、そのような「ユダヤ人の慣習」というのはそもそも存在していなかったのですから!

1世紀において、頭になにかを被っているユダヤ人男性が、「頭をはずかしめている(”dishonorable”)」(1コリ11:4)という目で見られていたという歴史的証拠はゼロであり、皆無です。

まとめ

エルサレム会議の席で、異邦人信者たちは、「書面に書かれている四つのこと以外には、ユダヤ的慣習を保持する必要はない」ということが確認されました。(そして、被り物のことは、そこに含まれていませんでした。)パウロはその会議に出席するよう教会から派遣され(使徒15:2)、会議の話し合いにおいて中心的役割を果たし(使徒15:12)、その決議を異邦人信者の元に届けるべく公的派遣者として奉仕しました(使徒15:22)。

ですから、その事実が意味しているのは、パウロは、コリントの信者たちに対し、被り物というユダヤの慣習を遵守しなさいと命じるような、そのような矛盾したメッセージは伝えなかったということです。

また、1世紀のユダヤ文化で、ユダヤ人男性が「頭を覆ってはいけない」という掟・慣習は存在していなかったということも、本稿で確認しました。被り物に関するパウロの指示は、その当時のユダヤの慣習にマッチしていなかったわけですから、もしかすると、それが理由で、パウロはこういった諸指示を出したのかもしれません。

またこういった事に増して、被り物に関するパウロの命令が、単なる地域文化の反映ではなかったことを弁証するものが、1コリント11:2-16の御言葉そのものです。この聖書箇所において、パウロは、その根拠を、創造の秩序、自然の証言、御使いという諸要素に訴えており、これらはいずれも文化を超越した性質のものです。

被り物は公的な使徒の教えの一部であり、あらゆる地域のあらゆる教会で実践されていたものであることをパウロは言っています。11章の少し前の章で、その当時の状況ゆえに別の命令を出さなければならなかった際、パウロは実際、そのことをしっかりと言及しています。「現在の危急のときには」むしろ結婚しないことを勧めます、と(1コリ7:26)。

ですからパウロとしては11章でも同じような言及ができたはずです。しかし彼はそうしませんでした。なぜでしょう。それは、その時分に起こっていた事が、彼が掟を出す理由ではなかったからです。従って、結論として言えるのは、女性が祈りや預言の際に被り物をすること(そして男性が被り物をしないこと)はユダヤの慣習ではなく、新契約下における、すべてのクリスチャンのための象徴的な慣習であるということです。

References

1.
 From Kippot (Head Coverings) in Synagogue accessed on April 20/15 at http://www.myjewishlearning.com/article/kippot-head-coverings-in-synagogue/.
2.
 Ellen Frankel and Betsy Teutsch – The Encyclopedia of Jewish Symbols (1992, Rowman & Littlefield Publishers) page 91. Similar wording also appears in the  JPS Guide to Jewish Traditions (2004, Jewish Publication Society) page 375.
3.
 Ellen Frankel and Betsy Teutsch – The Encyclopedia of Jewish Symbols (1992, Rowman & Littlefield Publishers) Page 91

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