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祈りのベールの証し(アンジェラ・デッカー姉妹)

Head Covering Testimonies

名前:アンジェラ・デッカー

年齢:19歳

所在地:カナダ、トロント市

祈りのベールを始めた時期:2015年4月



Covering Testimony: Angela Dekker

1) 読者のみなさんに自己紹介なさってください。

こんにちは!私は大学二年生です。昨年、バイブル・カレッジでの一年間の課程を修了し、その後二回に渡って、宣教旅行に行っていました。私は同胞クリスチャンのために、そして未信者の方々のためにお仕えしたいという熱い希望を持っています。そして共に救い主イエス様を深く知り成長していくことができるよう、カナダ国内外にいるクリスチャンを励ましていけたらと思っています。

2) どこの教会に通っていますか。その教会でも姉妹たちは礼拝時に、祈りのベールを被っていますか。

私は今春から地元の単立教会に集い始めたのですが、そこはブラザレン教会にとても似ています。教会の中ではほとんどすべての姉妹たちが、マンティラやスカーフ、帽子などで頭を覆っています。時々、教会を訪問される姉妹なら、被り物は課せられません。しかし、教会員になりたいと志願される方に対しては、被り物の必要性が説明されます。
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被り物は律法主義的?

Head Covering Objections
反論:被り物というのは律法主義的であり、律法に逆戻りするものです。私たちはキリストを信じる信仰によて救われたのであって、自分たちの行ないによって救われたのではあありません。被り物をする・しないというのは私たちの救いに影響をもたらすものではありませんから、それを実践する必要はないのです。

被り物(祈りのベール)を実践している人の多くは今日、律法主義的な人だとみなされています。この批判に対してコメントする前に、まずこの語の意味を明確にしておくことが重要だと思われます。

「律法主義」という言葉は聖書中どこにも出てきておらず、聖書の中に登場する人物で「律法主義的」と形容されている人も存在しません。この語は、掟を遵守する上での誤った観点を指し示すものとして人工的に作り出されたものです。一般的に言って、ある人が律法主義的である時、その人は以下二点のうちのどちらかを犯しているといえます。

  1. この人は、掟を守るという行為によって、自分は神との正しい関係を築くことができる(あるいは保つことができる)と考えている。
  2. この人は、「クリスチャンがおのおの自由に決定することのできる事柄」に関して、そこに掟を作り出している。

ます一番目の定義を見てみましょう。これに関しては、聖書のどんな教えであっても私たちは律法主義的な人になり得ます。その意味で、「被り物の掟」だけを特化して、律法主義的だと批判するのはおかしいといえます。

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牧師の証し(パトリック・スミス)

Pastoral Testimonies

Patrick Smith

1) 先生、ご自身のことと、それから牧会されている教会について少し教えてください。

パトリック・スミスと申します。私はカリフォルニア州チュラ・ヴィスタにあるアッパー・ルーム・コミュニティー教会で牧会をしている者です。小さな、こじんまりした教会で、私たちは聖書が神の言葉であり、イエスが生けるかしらであることを信じています。

2) どのような経緯で、「祈りのベールが今日にも適用される、永続的なシンボルである」ということについて確信を持たれるようになったのですか。

北米の大半のクリスチャンと同様、私も1コリント11:2-16の箇所を、「文化的なもの」として片づけていました。

しかし、約三年前のことになりますが、福音フェローシップという集いを通して、私は被り物が今日にも適用される聖書の掟であると信じる兄弟姉妹に出会ったのです。そのため、説教準備のため、いざ1コリント11章に取り組もうとした際にも、ある程度、私の心は開かれていました。

1コリント11:10の「それも御使いたちのためにです」という箇所にさしかかった時、私ははっと立ち止まりました。御霊がその瞬間、その聖句を光で照らしたかのようでした。

そしてその日初めて、「御使いというのは全く文化とは関係のない存在である」ということに気づいたのです。そしてそこから、パウロが他の聖書箇所においても、創造の秩序、神の国の中における権威の構造、自然という観点から、超越的・永続的な議論をしていることに私の目は開かれていきました。
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被り物と聖書解釈(R・C・スプロール著『聖書を知る“Knowing Scripture”』より)

Head Covering and Hermeneutics (An Excerpt from “Knowing Scripture” by R.C. Sproul)
R・C・スプロール博士は、フロリダ州のオルランド近郊に位置し、国際的なクリスチャンの教育プログラムを手掛けているLigonier Ministriesの創始者であり会長です。またRenewing Your Mindという番組でもスプロール師の教えを聴くことができます。この番組は米国および40数か国においてラジオ放送されています。またスプロール師はテーブル・トーク雑誌の編集長および改革スタディー・バイブルの編集主幹を務め、著書も70冊を超えています。さらにリゴニア聖書神学大学、改革聖書大学の学長も務めています。現在、師はフロリダのサンフォードにあるセイント・アンドリュース・チャペルの主任教師をしています。

原則と慣習(PRINCIPLE AND CUSTOM)

「全ての聖句が原則であり、従ってあらゆる時代のあらゆる人々に適用されるべきものだ」と結論づけるか、もしくはその反対に、「あらゆる聖句は特定の(その土地に限られた)慣習にすぎず、その直接の歴史的文脈を超えるいかなる関連性もそこには存在しない」と結論づけるのでない限り、私たちは必然的に、その差異を識別するためのなにがしかのカテゴリーないし基準を打ち立てる必要に迫られます。

この問題を説明するために、まずは「聖句のすべては原則であり、特定の慣習を反映したものなどは皆無だ」と私たちが考えた場合にどんなことが起こるかをみてみることにしましょう。

もしそれが正しいのなら、そして聖句に従順であろうとするならば、福音宣教の手法における、ある抜本的な変化が起こされねばならないことになります。

イエスは仰せられました。「財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな」(ルカ10:4)。

もし私たちがこの聖句を、超文化的原則に当てはめて考えるなら、今後、伝道者という伝道者は皆、裸足で宣教に出かけなければならなくなります!もちろん、この聖句の要点は、裸足による福音宣教を永続的な義務とすることにあるのではありません。

しかし、その他の箇所は、それほど明瞭ではありません。例えば、洗足の儀式について(ヨハネ13:3-17)については、クリスチャンの間では今でも意見が分かれています。これは果たして、あらゆる時代の教会に課せられた永続的な掟なのでしょうか。

それとも、謙遜なしもべとして仕えるという原則を表すための特定の慣習なのでしょうか。靴を履く現代の文化の中にあっては、原則こそ残れども、慣習は消滅すると考えるべきなのか、それとも、そういった靴装にかかわらず、原則と共にやはり慣習も残るのだ、と考えるべきなのでしょうか。

こういったジレンマの複雑性をみるべく、1コリント11章にあるあの有名な「被り物」についての箇所を検証してみることにしましょう。新改訂標準訳では、女性は預言するとき、頭にベールをかぶらなければならないと訳しています。

この掟を自分たちの文化に適用させていく上で、私たちは以下に挙げる四つの選択肢に直面することになります。 Read more

祈りのベールの証し:イリナ・グラツコヴァ(Irina Glazkova)

Head Covering Testimonies

名前:イリナ・グラツコヴァ
年齢:25歳
所:カナダ、NL州セイント・ジョンズ
祈りのベールをつけ始めた時期:2010年10月


Covering Testimony: Irina Glazkova

1) 読者のみなさんに少し自己紹介してください。

こんにちは。私の名前はイリナ・グラツコヴァで私は独身のクリスチャン女性です。私はロシアから来ました。カナダには2007年9月より在住しています。それ以前には交換留学生として11カ月米国に住んでいました。私は多くの思想探究の旅を続けた末、12歳の時、主イエス様を救い主として心に受け入れました。

私は生まれつき身体に障害があり、これまで7回手術を受けてきました。自分が身体障害者だということで、子ども時代から10代にかけ、私は深刻ないじめに遭ってきました。

私が生まれた時、病棟の医者たちは母に、「この子を病院に置いていかれたらどうですか。ひどく病弱ですし、それに身体的にいくつもの欠陥があります」と説得しました。

悲しいことに、これはロシアおよび旧ソ連諸国では普通に行なわれていることなのです。でも母はそれを拒みました。そして母は多くの犠牲を払って私を育ててくれました。私の最大の夢は、自分の家族が救いに導かれることです。

深刻ないじめに遭ってきたと書きましたが、このいじめの体験は、私を真理探究に向かわせました。この世に正義が存在しないということが私にはどうしても受け入れられませんでした。私は母と連れだってロシア正教会に通っていました。でも、聖人に祈ったり、イコン等の前にひざまずいたりすることに葛藤を覚えていました。

交換留学生として米国に滞在していた時、私はバプテスト教会の牧師家庭にホームステイしていました。そしてそこで私の信仰は成長し始めたのです。その時、私は17歳でした。

米国滞在後、カナダの大学に進学することを私は考え始めていました。ちょうどその頃、息子さんの卒業式に出席するため、現在私が通っている教会(フェイス・バイブル・チャペル)から一人の婦人が米国にやって来られました。

さらにニューファウンド記念大学から入学許可および奨学金をいただくことができました。
こうして主は私をここニューファウンドランドに導いてくださったのです。私はハイキングや散策、小物作り、読むこと、書くこと、歌うことが好きです。いろいろな形の雲をみるのも好きです。

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