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被り物は「重箱の隅をつつくような」教えでしょうか?かえって福音の妨げになっているのでしょうか。

Head Covering Objections
反論:被り物は「重箱の隅をつつくような(“majoring in the minors”)」教えです。それは聖書に一回しか言及されていない曖昧な箇所を持ち出して、そこからある慣習をこしらえるような、そのような無理のある教えです。こういう事を議論するより、私たちはむしろ、飢えている人々に食料を提供するとか、福音を伝えるとか、そういうもっと大切な事に関心を注ぐべきだと思います。

被り物についての聖句(1コリント11:2-16)は、「あいまいで不明瞭な聖句」という範疇に入れられがちな聖書箇所です。ある神学者は言いました。「ここの被り物の箇所と、Ⅱテサロニケの不法の人の箇所は、新約聖書の中でも最も不明瞭な聖句の内に数えられます。」しかし果たしてそうなのでしょうか。

ここの聖句は確かに活発な議論の余地ある箇所であり、さらなる熟考と綿密な検証を有するような質の高い反論も存在します。しかしここの聖句が「あいまいで、不明瞭」?

真に不明瞭な聖句というのは、その議論が続けて展開されていなかったり、説明されていなかったり、もしくは擁護されていないような箇所のことをいいます。そして、そういった漠然さゆえに、その箇所の意味を識別することが容易ではないのです。

例を挙げましょう。例えば、1コリント15:29(死者のためのバプテスマ)、1テモテ2:15(女性は子を産むことによって救われます)、1コリント11:10(「御使いたちのために」被り物をする)などは一般に不明瞭な聖句とみなされています。

被り物の箇所にも、不明瞭といわれるこの聖句(1コリ11:10b)が一つ出てきますが、箇所全体としてははっきりしており、そこに不明瞭さはありません。

曖昧な聖書箇所というのは、たいがい、一聖句ないしは二聖句の短い箇所です。それに対し、被り物の箇所は、実に15節に渡って、しかも連続して書かれています。

また曖昧な箇所というのは、言及されてはいても、説明のない箇所である場合が多いです。一方、被り物の箇所においては、パウロは「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたい、、」(1コリ11:3)と語り、その後、このシンボルの背後に存在する意味を分かりやすく解き明かしています。

さらに、曖昧な聖書箇所は、「なぜそうしなければならないのか」という理由説明なしに掟が述べられているような場合が多いのです。しかしそれとは対照的に、被り物の箇所においては、「なぜ女性たちが被り物を着けなければならないのか」という理由がしっかり説明されています。

〔その理由に関しては、創造の秩序(3、7-10節)、自然の証言(14-15節)、御使い(10節)、使徒の公的教え(2節)、神の諸教会における慣習(16節)をそれぞれご参照ください。〕

ですから、被り物は曖昧どころか、新約聖書の中でも際立って明確に擁護がなされているシンボルなのです。

一回だけしか言及されていない

また類似の反論として、「被り物の教えは、聖書の中で、たったの一回しか言及されていないじゃないですか」というものが挙げられます。それは確かにその通りです。

しかし私たちにある御言葉を「本気で」受け取ってもらうべく、主ははたして何度も繰り返しその事を言及しなければならないのでしょうか。私たちを「本気に」させるために、主は何回、その事を言及する必要があるのでしょうか。

もちろん、答えは「一回で十分」です。というのもその事を私たちに命じておられる方は神ご自身だからです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」Ⅱテモテ3:16-17

そうです、「すべての」聖書箇所は、有益なのです。「ある特定の箇所だけ」でもなく、「何回も繰り返し言及されている内容」だけでもなく、ここで言っているのは「すべての聖句ALL Scripture」です。

それだけでなく、聖書はすべて「教えのために有益です」とあります。ということは、被り物に関して話し合ったり、教えたりすることは、福音の妨げになる行為ではなく、神の霊感をもって書かれた聖書の教えに対する正当な応答なのだということがいえます。

また注目していただきたいのは、使徒パウロがここで、主の晩餐(1コリ11:17-34)とほぼ同じだけの分量を割いて被り物(1コリ11:2-16)のことに言及しているという事実です。その両方のテーマに関し、パウロはそれらをただ一回だけ述べています。

もし反復というのが重要性を計るバロメーターであるのなら、使徒パウロは被り物と主の晩餐を等価値にみていたということになります。そしてその論理でいくなら、パウロは聖なる口づけ(これに関し彼は四回も言及しています!)のことを、女性牧師の是非を問うテーマ(これに関して彼は一回しか言及していません)よりもより重要なものと捉えていた、、ということになってしまいます!もちろん、そんな論理は通りません。

重要性においてはやや劣る掟(Lesser Commands

ある人々は、被り物のテーマに関して詳細な検証をしたり、意見交換したりすることは、貧民救済とか、福音を伝えるといったより重要な聖書の掟から私たちの注意をそらす「妨げ」に他ならないと考えています。

ではまず、みなさんに質問しましょう。こういった掟は、被り物の掟よりも、より大切なのでしょうか。そうですね、、確かにより重要だといえます。

その意味で、被り物というのは、「聖書中、最も重要な掟!」などとは到底言えないでしょう。しかし繰り返しになりますが、神が「聖書すべて」に霊感を与えられた方である(Ⅱテモテ3:16-17)ということを私たちは信じており、それゆえ、すべての聖句は、真剣に取り組むに値するわけです。

それではここで、イエスが「重要性においてはやや劣る掟」についてどのように扱っておられたのか、ご一緒に見てみることにしましょう。

「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」マタイ23:23

イエスはここで、「十分の一を納めることは、正義やあわれみ、誠実といったものほど重要ではない」という事をパリサイ人たちに言っておられます。パリサイ人たちは些細なことは几帳面に守っていましたが、より重要な掟に関してはそれらをないがしろにしていたのです。

それに対してイエスはどのように反応されたでしょう?そうです、主は彼らを厳しく叱責し、「律法の中ではるかに重要なもの」をまず実行しなさいと言われました。

しかしそうだからといって、主は「それよりは重要性の劣る掟を守ることをやめてしまいなさい」とは言われませんでした。主は、そのどちらをも守ってほしいと願われたのです。「これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」と。

また他の箇所で、イエスは旧約の律法に関して次のように言っておられます。

「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」マタイ5:19

ここで明らかなように、イエスは小さな掟(戒め)のことを任意のものとは見ておられなかったのです。イエスによれば、戒めのうち最も小さいものも、最も重要なものと同様、尊守する必要があると言っておられるのです。

もちろん、こういった戒めや掟は、各々識別される必要があり、一律に扱うことはできませんが、いずれにしても、両者共々、尊守されるべきであるという点には変わりがありません。

結論

被り物の教えは、あいまいで不明瞭な霧につつまれてはいません。これは聖書の中でしっかりスペースを取って説明がなされている箇所であり、それを実践すべき数々の理由もここに述べられています。

それゆえ、この教えのことを、「文脈から切り離し、あるいは漠然としたある聖句をとって、かってに教義を作り出す行為」だと非難するのは、理に適っていないと考えます。

また聖書中、一回しか言及されていませんが、その一回で十分だと私たちは申し上げたいです。なぜなら、神がこの聖書の筆者だからです。

異なる聖書の掟をそれぞれ互いに対立させるというのは、誤った二分法(dichotomy)です。被り物か、貧民救済かという二者択一(OR)ではなく、被り物も貧民救済も、というANDなのです。つまり、「この教えを学び実践するため、私は人々に奉仕したり福音を伝えたりするのをやめなければならない」というロジックは成り立たないということです。

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