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それについて祈ってはみたんだけど、、(でも祈りのベールを始める確信がない)

I Prayed About it (And I Don't Feel Convicted to Cover)

何年も前になりますが、私はあるティーンの男の子から手紙をもらいました。「最近、ガールフレンドと体の関係を持ちました」と。彼はそれ以前に、この事(体の関係を始めるべきか否か)について真剣に考え、祈ることにしたそうです。

ギデオンのように彼は主に「御心を僕にはっきりお示しください。」と祈り、こう言いました。「主よ、もし今晩、彼女が家に来たら、あなたが僕たちの体の関係をOKと思ってくださっていると受け止めます。でも、もし彼女が来なかったら、僕は、あなたがそれに反対しておられると解釈することにします。」

その晩、彼女から「家に来てもいい?」という電話があり、結局、この十代の男の子は「これが祈りの答えだ!」という偽りのゴーサイン(安心感)の下、彼女と体の関係を持ってしまったのです。

もちろんこれは極端な(でも実際に起こった)例ですが、私たちの多くは、何かに対する神の御心を求める時に、彼のような方法を使っているのではないでしょうか。この記事で私は、――もし聖書の中で直接的かつ明確な指示が与えられているなら――私たちは「祈りによって」自分の身の振り方を決めるべきではない、ということを示そうと思います。

権威のある御言葉

聖書は次のように言っています。

「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:20-21)

聖書のみ言葉は人の意見ではありません。人間は、御霊の指示により「神からの」ことばを語る媒介者(instruments)でした。

ですから、聖書の中のパウロやヤコブ、ルカといった人々の指示は、イエスご自身の口から出された言葉や、シナイ山で語られた神の言葉と同様、権威あるものなのです。英語の聖書の中にはイエスの言葉が赤字で載っているものもありますが、実際には、赤字の部分も黒字の部分も同じ権威を宿しています。1) いくつかの英語訳聖書にはイエスの言葉が赤字で、その他の箇所は黒字で印刷されているものがあります。 また聖書は次のようにも言っています。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

聖書は「神の霊感によるもの」ですから御言葉を読む時、私たちは神のおっしゃっている内容を読んでいることになるのです。

つまり、こういう事です。――もし聖書が私たちに何かをしなさい(あるいは「してはいけない」)と言う時、私たちはそれを権威あるものとして受け止めなければならないということです。

それについてどんなに祈ったところで、神はその聖句とは違う答えを与えてはくださいません。

惑わしを避けるために

冒頭の十代の男の子に話を戻しますが、彼は本来、自分のやるべきことについて祈る必要はなかったのです。なぜなら神は聖句の中ですでに彼の問いに答えてくださっていたからです。

神の彼に対するメッセージはこの一言に尽きました。そうです、「不品行を避けなさい」(1コリ6:18)でした。

そうであるにも関わらず、私たちが尚も「いや、祈っていけば、神様は別の答えをくださるかもしれない」と突き進んでいくなら、やがて私たちは惑わし・欺きの穴に落ち込んでしまいます。

「だれも自分を欺いてはいけません」(1コリ3:18)と聖書は警告しており、また、私たちの敵であるサタンは惑わす者(黙12:9)であることを覚えていなければなりません。

「これが私たちの祈りに対する神様の答えだと思う」というのは主観的であり 2) 平安や確信、あるいは導かれていると感じる感情は主観的なものです。それは神から来たものかもしれませんが、そうでない可能性もあります。それゆえ、もしも必要なら、それを矯正することのできるような、より高次の権威にそれは従う必要があります。それがまさしく聖書なのです。  、それ故、それは神の御言葉の権威にしっかり固定(anchored)されていなければなりません。

つい最近、うちの玄関先に、モルモン教の宣教者の方々がやって来ました。なぜモルモン教が真理なのかという根拠を挙げるべく、彼らは私にこう言いました。「私たちは『モルモン教が真理か否か』という点で祈り求め、神はそれに対し――平安ないしは「胸を熱くする感情」を通して――答えてくださいました」と。

この若い二人は、神が彼らの祈りに答えてくださったと信じるから、、という理由で、モルモン教が真理だという(誤った)確信を抱くようになったのです。彼らのいう「確信」とは、神の御言葉という不変の権威ではなく、自分の主観的感情ないしは体験に基づくものでした。

分かりますか。ジョセフ・スミス 3) モルモン教の創始者・預言者。モルモン教についてはThe Bible vs. Joseph Smithをご参照ください。  がまことの預言者であったかどうかを知るのに私たちは祈る必要はないのです。「いや、ぜひその事を祈ってください」と私はこの二人に言われましたが、私はそうするつもりはありません。

というのもジョセフ・スミスの啓示というのは、神が御言葉で語っておられる内容と食い違っているからです。そこから私たちは、この人物が神から来たものでないことを知るのです。ですからもし私たちが聖句のことで疑問があるなら、まず聖書をひもときます。

そしてもしそこに明確な答えが記されているのなら、私たちはさらなる別の答えを求めて祈る必要はないわけです。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない」(民23:19)そして「主であるわたしは変わることがない」(マラキ3:6)。

ですから、神が聖書の中である事を命じておきながら、「祈った結果」全く別の事を示すということはありえない――その事について私たちは不動の確信を持つ必要があります。

確信がない

私は祈りのベールをもはや実践しなくなった多くの女性たちから話を聞きます。彼女たちはどうして被り物をやめてしまったのでしょう?

「ええ、それについて祈ってみたんです。でもこの先も続ける必要があるのかって考えてみた時に、祈りの中で確信が与えられなかった、、だからやめました」というのが最もよく出される理由です。

また多くの女性が同様のメソッドを用いて、「祈りのベールを始めるべきか否か」について決めています。確信が与えられたと「感じる」なら、彼女たちはベールを始めます。そして反対にそう「感じない」のなら、始めないのです。

しかし聖書の中で直接的にかつ明確に取り扱っているテーマに関する私たちの応答はこういうフィーリングに基づくものであってはなりません。

神は1コリント11章の中で被り物に関する指示を出されています。ですから、すでに仰せられた事以外に主が何か別の事を仰せられることはないのです。そうです。主の出されたご回答は「かぶり物を着けなさい」(1コリント11:6)です。

しかしどうか誤解しないでください。もしここの聖句に関する理解に苦しんでおられるのだとしたら、私たちは知恵を求めるよう主に言われています(ヤコブ1:5)。ですから、あなたがまだ疑いの中におられるのに、「祈ってはいけない」などとは言っていないのです。

そういうことを申し上げたいのではなく、私たちの決定は主観的な感情ではなく、あくまで神が聖書で言っておられることの理解の上になされるべきだと言っているのです。

そういう意味で、仮にあなたが「女性の長い髪=被り物」説を信じておられるのなら、それはあなたが現在、被り物を実践していない正当な理由となり得るでしょう。

(とは言っても私たちは「女性の長い髪=被り物」説には全く同意しておりません。それに関する記事はここです。)

でも「祈ってみた。でも確信が与えられていないように感じるから、、」という理由で、聖書が「こうしなさい」と命じていることをないがしろにすることは危険だと思います。私の願いは、被り物の事に関し、みなさんがあくまで神の言葉に基づいて(するのかしないのか)ご決心なさることです。

もし私たちがそのステップを回避し、御言葉よりも自分の受けた「祈りの答え」を重んじるなら、私たちはやがて惑わされてしまうようになるでしょう。

結論:

ー私たちは自分自身の肉ないしはサタンによって騙されることがあり得るということを念頭に置き、気を付けている必要があります。

ーもし聖句に関することで、聖霊がある事を仰せられている場合、その後どんなに祈ったところで、その答えが変わるということはありません。

ー確信を与えられたような感じがする、それに関し心に平安が与えられたような感じがするというのは主観的なものです。それは神の御言葉の権威に従うものでなければなりません。

ーもし聖書があるテーマについて直接的そして明確に語っている場合、私たちはそれに対する応答を、神が仰せられた事についての私たちの理解の上になすべきです。

ー逆に、もし聖書が直接的また明確に語っていない場合、その時には、私たちは知恵と導きを求めて祈るべきです。

References

1.
 いくつかの英語訳聖書にはイエスの言葉が赤字で、その他の箇所は黒字で印刷されているものがあります。
2.
 平安や確信、あるいは導かれていると感じる感情は主観的なものです。それは神から来たものかもしれませんが、そうでない可能性もあります。それゆえ、もしも必要なら、それを矯正することのできるような、より高次の権威にそれは従う必要があります。それがまさしく聖書なのです。
3.
 モルモン教の創始者・預言者。モルモン教についてはThe Bible vs. Joseph Smithをご参照ください。

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