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なぜかぶり物?――理由その1【創造の秩序】

You can also read this article in English here.
Biblical Case for Head Coverings

「、、、ここで最も驚くべきことは、パウロが、コリントのことではなく、創造のことに論拠を求めていることだ。何であれ、地域的習慣を超えるものは創造に根付き秩序づけられているものである。だからこそ、私はここの聖句をあいまいに扱うことを大変恐れているのだ。」R・C・スプロール 1) R・C・スプロールの説教(‘To Cover or Not To Cover’ available at www.ligonier.org/learn/series/hard_sayings_of_the_apostles/to-cover-or-not-to-cover/)から引用

使徒パウロはⅠコリント11章の中で、(女性たちが)実際のかぶり物を着けるべき四つの理由を挙げています。その中でも最初に挙げる理由が土台です。――つまり、かぶり物が指し示している深遠なリアリティーのことです。

例えば、バプテスマは、古い人に死、キリストにある新しいいのちに生きることを象徴しています(ローマ6:4)。同様に、女性が頭にかぶり物を着けて祈り、男性がかぶり物を取って祈ることにおいても、そこには何か偉大なことが象徴されているのです。さあ、この土台についてみていくことにしましょう。

「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」Ⅰコリント11:3
神は男性と女性を、その価値や重要性において同等につくられました。

私たちはお互いを必要としており、また、聖書が言うように「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。」(Ⅰコリント11:11)

しかし、私たちが平等であるからといって、同じ役割、権威もしくは機能をもっているわけではありません。2) 私は相補主義の立場(Complementarianism)を擁護しています。これに対する反対の立場のことを同等主義(Egalitarianism)といいます。ウェイン・グルデム氏がこのテーマに関して多くの著作を書いておられますが、みなさんにも一読をおすすめします。(Evangelical Feminism and Biblical Truth & Countering the Claims of Evangelical Feminism.などがあります。)

こういった相違は、被造物や、御使いたち、もしくは神ご自身のうちにおいても見られます。

三位一体の教えというのは、唯一の神がおられ、その神は三つの異なったペルソナ(位格)において啓示されています。その三位格とは、御父、御子、御霊です。この三位格は、完全に神であり、完全に同等ですが、機能、権威、位格においては異なっています。上の聖句でもみたように、「キリストのかしらは神です。」

「イエスの、御父に対する服従は、受肉時に限られていた」と主張している人々もいますが、そうではありません。Ⅰコリント15章で、御国の完成のことが言及されていますが、聖書は次のように言っています。

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(Ⅰコリント15:28)

イエスはその価値において御父に劣ることはありません。

聖霊もまた――御霊の役割は、ご自身について語ることではなく、御子の栄光を現わすことでありましたが(ヨハネ16:13)――その価値においてイエスに劣ることはありません。

異なる役割というのは、価値の優劣や重要性の大小を意味するわけではありません。この点はいくら強調してもしすぎることがないといえます。

警察官はあなたに対して、神より与えられし権威がありますか?(ローマ13:1)そうですよね。では、その警察官は人間としてあなたよりすぐれた価値があるのでしょうか。いいえ!

子供たちは両親に従い(エペソ6:1)、奴隷は主人に従い(エペソ6:5)、妻は夫に従い(エペソ5:22)、市民は政府に従い(ローマ13:1)、教会員は長老たちに従い(ヘブル13:17)、イエスは神に従います(Ⅰコリント11:3)。

御使いたちの間においては異なる地位さえ存在していました。ミカエルは「御使いのかしら」(ユダ9)と呼ばれています。3) Thayer’s Greek Definitions, G743

私たちは権威のことをこわがる必要はありません。ひどい親、残忍な主人、男性優越主義の夫、権力に陶酔した牧師、そして邪悪な政府、、こういったものは世の終わりまで存在し続けるでしょう。

しかしこれはあくまで、罪ゆえに生じたものであり、権威自体が悪だからなのではありません。私たちの模範例としては、ですから、三位一体の神をみていこうではありませんか。

ですから、かぶり物を着けなければならない第一番目の理由は、創造の秩序ゆえなのです。これがパウロが「あなたがたに知っていてもらいたい(Ⅰコリ11:3a)」と言った土台なのです。そして、これは文化的議論ではなく、超越的議論――すなわち、御父が「かしらであること(headship)」は永続的かつ不変のものである――です。

次の聖句を検証する前に、私は自分と同じ相補的な立場にたつ同胞キリスト者のみなさんに一つの問いかけをしたいと思います。4) 男性と女性は、役割、権威、および機能における相違を通して、お互いに補い合う存在であるという見方。

男性による牧会職およびかしらとしての夫についての議論ですが、私はこの点でみなさんに完全に同意しています。Ⅰテモテ2章では、なぜ女性が「教えたり、男を支配したりすること」ができないかが説明してあります。

「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑われてしまい、あやまちを犯しました。」(Ⅰテモテ2:12-14)

みなさんは「これは創造の秩序に基づくゆえだ」とおっしゃっています。「だから、これは文化的なものではないのだ」と。

私もそれに同意します。しかし次の聖句を検証するにあたっても、みなさんが同じように一貫性のある態度を取ってくださるようお願いします。

「男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。」(Ⅰコリント11:7-10a)

ここでパウロは、なぜ女が頭に権威のしるしをかぶるべきかを説明しています。――創造の秩序のためだと。

神のかたちに似せて人がつくられたと書いてある聖書箇所はどこですか。――創世記1章

女が男からつくられた(もしくは「男の栄光」である)と書いてある聖書箇所はどこですか。――創世記2章。

女が男のためにつくられたのであって、その逆ではないということが書かれている聖書箇所はどこですか。――創世記2章。

そして、罪が入ってきたのは聖書のどこに言及されていますか。――創世記3章になって初めて言及されています。

ですから、この土台というのは、創造に基づくだけでなく、罪が入ってくる前の、神の完璧な創造に基づくのです。かしら観および権威というのは、神の元来抱いておられた意図だったのです。つまり、これは堕落「後」の災難ではなく、堕落「前」の傑作だったのです。

なぜ男性と女性に対する掟が違うのか(なぜ一方はかぶり物を着けなければならず、もう片方はそうしてはいけないのか)ということについてですが、下に表を作ってまとめてみました。

 

男性(かぶり物なし) 女性(かぶり物着用)
男は女のかしらである(Ⅰヨハネ11:3) 女性は生活の中で、適切な男性の権威に対し、かしらとして(Ⅰコリ11:3)これに従う。
男はちりから直接神によってつくられ、「神の栄光」(Ⅰコリ11:7-8)である。 女は男のあばら骨から神によってつくられ、「男の栄光」(Ⅰコリ11:7-8)である。
男は女のためにつくられたのではない(Ⅰコリ11:9)。 女は男のためにつくられた(Ⅰコリ11:9)。

神は、ご自身の無限の知恵をもって、創造の秩序におけるこの相違を示すべく、完璧なシンボルをお選びになりました。

私たちの神はシンボルを好まれます。――傷のない小羊、パン種の入っていないパン、バプテスマの水、パンとぶどう酒、オリーブの木、神殿、祝祭などなど、、それぞれのシンボルは、より偉大なリアリティーを指し示すべく、ある特定の目的をもって、神により選ばれました。

ヘブル人への手紙には、モーセが、作るようにと命じられた幕屋についての記述がありますが、私たちはこのリアリティーをそこに見ます。というのも、モーセが幕屋を建てようとした時、神はモーセに次のようにお告げになったからです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」(ヘブル8:5)

ヘブル人への手紙の筆者は後に、この幕屋は、「今の時代に対する」(ヘブル9:9a)シンボルであると指摘しています。確かに、これはシンボルではありましたが、モーセは依然として非常に具体的な指示を与えられ、それに倣うように言われました。

なぜでしょうか。それは、もしシンボルを変えるなら、神がそれを用いて指し示そうとされているものをもはや正確に反映できなくなるからです。

かぶり物についても同じことが言えます。男性は、かぶり物を着けずに祈り預言することによって、神の栄光およびキリストに対する服従を映し出します。その一方、女性はかぶり物を着けて祈り預言することによって、男の栄光および彼女の生活の中における適切な男性の権威に対する服従を映し出します。
もし私たちがシンボルを変えたり、捨て去ってしまったりするなら、創造における神の知恵を、人や御使いの前に表す機会を逸してしまいます。

さらに悪いことに、パウロが言っているように、「かしらをはずかしめる」(Ⅰコリント11:4-6)ことになり、それはとりもなおさず、私たちの主の掟に対して不従順であることになってしまうのです。

 

References

1.
 R・C・スプロールの説教(‘To Cover or Not To Cover’ available at www.ligonier.org/learn/series/hard_sayings_of_the_apostles/to-cover-or-not-to-cover/)から引用
2.
 私は相補主義の立場(Complementarianism)を擁護しています。これに対する反対の立場のことを同等主義(Egalitarianism)といいます。ウェイン・グルデム氏がこのテーマに関して多くの著作を書いておられますが、みなさんにも一読をおすすめします。(Evangelical Feminism and Biblical Truth & Countering the Claims of Evangelical Feminism.などがあります。)
3.
 Thayer’s Greek Definitions, G743
4.
 男性と女性は、役割、権威、および機能における相違を通して、お互いに補い合う存在であるという見方。

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